ながく読んでいたIQ84が連休の最後の夜についに読了。前に一度読んでましたが、やはり読み方がだめ。何読んでたんだろうと思います。
新たに読みふけっていると、なんだか具合悪くて横になるのも辛かった夜も、なんとかしのげました。私の本、kobo aura oneにはIQ84として3冊分、1500ページを超えるこの大長編の全体がはいってますが、BOOK2を終えて、Book3をさて、と続けて読み出したとき、なんと、この本は読んでなかったことに気がつきました。そういえば、以前はそんなに熱心じゃなかったので、買っただけであとで読もうと思って、そのまんま、書棚に並べてました。単純にうれしかった。まだ読んでいない彼の長編があったなんて。
「彼女の生きた感情はどこかよそにあるらしかった。少なくともこの場所にはない。別のどこかにある鍵のかかった小さな暗い部屋に、その心はしまい込まれてしまったようだった。」
BOOK2の終わり、青豆が高速道路上に一人たち、いぶかしげに眺めるベンツの女性を尻目に、ヘックラー&コッホをくわえて首都高の上で息絶え、かたや、天吾が青豆を探す決意を固める、このシーンは、とても感動的でした。
だけど、BOOK3では、なんと青豆は生きてたんだ、というところからはじまり、まるで手塚治虫の長編のようなクライマックス。決して皮肉ってるわけでなく、これだけ面白く、読むのが楽しみだった小説は、ほんの数えるくらいしかありません。
この壮大で神秘的な物語、 これを知らない人生は寂しい、というのが読み終えたときの率直な感想。村上春樹は、三題噺が得意で、お題をもらえばいくらでも話は出てくるといってましたが、それがよくわかります。この作品は最初BOOK1と2がでて、しばらくしてから3が発行されて驚きと歓声で迎えられました。これにはたぶん経緯があり、BOOK2の時点で、いったんはおわってたのかなと思います。だけど、この物語はもっと続く意志を持っており、彼はそれを書きとめた、というところでしょうか。
人は物語るもの。かつて人間がまだ洞窟の中で暮らしていた頃でも、おとなたちはたき火の前で外の闇に耳をそばだてながら、子どもたちに空の星たちの闘いのお話を聞かせていたに違いありません。
それにしても、なんて見事な表現、イメージなんだろう。
「・・・まるでそこにかぶっていたほこりが夜の雨に洗い流されるみたいに。
不安と期待とおびえが、がらんとした教室の隅々にまで散らばり、臆病な小動物のように様々な事物の中にこっそり身をひそめていた。数式の消し残しのある黒板、折れて短くなったチョーク、日焼けした安物のカーテン、教壇の花瓶に挿された花、壁にピンでとめられた子どもたちの描いた絵、教壇の背後にかかった世界地図、床のワックスの匂い、揺れるカーテン、窓の外から聞こえてくる歓声ーそこにある情景を天吾はとても克明に頭の中に再現することができた。」