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2015年10月30日金曜日

サリンジャーと過ごした日々

大学の帰り、週末に、そのまま帰るのが惜しく、立ち寄った、深夜もやってる書店で見つけた一冊、ジョアンナ・ラコフという、聞いたことも無い作家。何とも平凡な題名に、よくある薄いサリンジャー本かとは思いつつも、つい手に取ってしまう。パラパラめくると、一瞬、惹かれるものがあり、即購入、ではなく、家に着いて、ちょっとネットで調べてからアマゾンで購入。

聞いたことも無いのは当然で、これが邦訳初、小説はいくつかの賞をもらっているらしいが、まだ訳もない。忙しくて、まったくたびれ果てた一週間だったけど、寝る前限定で読んでるうちに読了。こんなとき、良い本に巡り会えて良かった。がさがさした本だと、悪い夢を見ます。

優れた書き手です。昔、栗本薫が若くて素敵なお話を書いていた頃、『私は書かなくてはならない、書くために生まれてきたんだ』、ということをはじめて自覚したときの記憶を、いきいきと描いた本がありました。この本も、どこかそんなところがあります。

大学を出て、アシスタントで働いた一年間、文学を専攻しつつもサリンジャーなど読んだこともなかった彼女が、全くの偶然でサリンジャーを担当する出版エージェンシーに勤めだし、彼への膨大で熱烈なファンレターをひたすら断る仕事をする中で、ついには御本人と電話で話し、紹介される羽目になり、フラニーとズーイに目覚め、シーモアの苦しみに涙するようになる。

一年が経つ頃、「わたしはもう女子学生ではない」、と格子柄のスカートとローファーを手放し、世の中はパソコンで原稿を書くのが普通になりつつある中、IBMの電動タイプライターが主役だった出版エージェンシーを卒業する。そんな、奇跡の一年が、とても丁寧に描かれています。真冬のマンハッタン、セントラルパークの池のカモたち、ウィリアムズバーグ橋をわたる車の音、いつも満員のカフェの窓際の席、電話機につないでパソコンを飛ばしてくれるモデムのこと。なんて賑やかでゆたかな世界。

「ここに描かれたひとつの世界は喪に服し、回復する日は決して訪れない」

ある日、ふと彼女に、彼のことを「わかる」瞬間が来ます。思わず空を見上げたほど、寂しく、つけ抜けるよう。だから、人々は、多くの手紙をサリンジャーに一生懸命書いて、フラニーは妊娠したのだろうか、シーモアは、と聞いてくる、だけど、それはその中にしかなく、そこに封じ込められたもの、その苦しみに、彼は自らを閉ざし、ニューヨークから離れざるをえなかった。

この翻訳も素晴らしい。井上里という若い人で、ラコフの色彩に満ちた伸びやかな感受性にぴったりな文体で仕上げています。強い共感を持って進めた翻訳というのがずんずん伝わってきます。例えばこんなところ、

「 わたしは目に涙をにじませながら、弧を描いて池に架かる小さな橋へ歩いていった。橋の上に立ち、顔をあげる。五番街に林立する大きなビル群がみえ、向こうへ続いていく森がみえ、動物園へ続く小道がみえた。その動物園は、ホールデンがフィーバーを連れていった場所であり、 わたしが、魚をもらおうと吠えるアザラシをみた場所でもあった。アザラシが吠えたはずみに、水槽のふちから水しぶきがあがったことを覚えている。ふいに北のほうから、水の揺れる音がはっきりときこえてきた。カモたちだ。 ・・・・・(中略)・・・ カモたちは池をまわりながら、昆虫や小魚がみつからないか、サンドイッチのかけらがーこの寒空の下でピクニックをしにきた元気な人たちが残していったものだー落ちていないか探していた。カモたちは美しかった。美しく、愛らしく、王者のような気品をたたえて、黒く澱んだ池を滑るように泳いだ。」 

いつまでも書き写したいくらい。素敵な文章と翻訳。ほんとうに幸せな出会い。

滅多にないけど、こんな本に出会うことがあります。こういうのは、やはり、夜中まで開けてくれる、物理本屋のおかげ。少しは売り上げに貢献しなければ。