怒濤のような一週間。雪も降り出してきました。荒川洋治の若い頃の詩が良いなと思うのはこんなとき。1975年に発表された詩集『水駅』から。
「西ロシア、クイビシェフ湖。水のおもてには、雪景がふるえながらひたされる。・・・」
そう、これが詩の言葉。おととい、東京の高架下につながる賑やかな通りを歩いていたとき、ふと、パリやベイルートのテロの映像がかぶって、つい早足になって、なんだか逃げるように北に向かう新幹線に乗り込みました。情けないとは思うものの、これは、自爆テロという、理解を超えた人の行動への、無意識のレスポンスです。
でも人はこうやって、ちょうど若い荒川洋治がロシアの湖の前にたたずんでいたように(実際に旅したのか、地図の上だけだったのか知らないけど)、眺めるときがあります。人は言葉を得て、記録することで、行動を拡張し、生物としての行動の範囲を超え、果てしなくなりました。これ自体は、自らのあり方を突き進める行いで、素晴らしいこと。しかし、世界を破壊することすらできるほどになって、当惑するほどになってきました。行動は生きるための能力だったはずなのに、
もはや行動が目的となり、立ち戻るすべをどこかで忘れ、ひどく混乱してしまい、すくんでしまう。どれだけ混乱しても、消してしまえばいいのだからとささやかれると、それが救いのようにきこえるのか。眺めることを忘れた生物。
再び、荒川洋治。
「ひとつの夜仕事であろうか。目をさました所員は、塗りおえたばかりの地図を再び灯火にひきだす。湖水の青い線の均衡はかすかにこわれ、いくらか肌の色をおびている。・・・」