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2015年12月20日日曜日

ストーナー

ジョン・ウィリアムズの「ストーナー」、読了。床に入り寝付くまでの時間、このところ毎晩読んでましたが、ミズーリ大で古典を教えてる気分でした。作品社という聞いたこともない出版社の本。このまえ東京に行ったとき、丸善でアメリカ文学のところに山積みされていて、パラパラめくって即購入。

珍しい経緯の小説です。この作者はストーナーと同じ大学の古典の先生で、出版は50年くらい前。プロフェッショナルな作家ではないようです。出版当時はほとんど話題になることも無く忘れ去られていたそうですが、今世紀に入ってなぜか再版されたとき、ヨーロッパでよくあるキャッチコピーとともに随分話題になったとか。確かにアメリカで受けそうな本ではないです。日本では、翻訳大賞を受けたと、帯に書いてあったような気がします。

珍しく他の本に浮気することもなく、これだけに専念して、毎晩、寝るときにストーナーになってました。とにかく面白かったのは間違いありません。貧しい農家に生まれたストーナーが古典文学の世界に惹かれて学問の道に進み、大学で教えて死ぬまでの、特に何の変哲もない生涯が描かれています。何が面白いのかわからないですが、何か、惹きつけるものがあります。ただ、ちょっと引っかかったのは、むしろこの翻訳。この翻訳者のことが書かれた後書きを読むまでは、翻訳の世界にはまだそれほど経験のない、豊富な語彙を持ち文学を志す若者が気負って訳したのかと思っていました。が、なんと高名な翻訳者が亡くなる直前まで手がけていた作品だそうです。

そういうことを知るとなかなか書きにくいのですが、読んでいて、遙か昔に読んだトム・ウルフの「天使よ 故郷を見よ」を思い出しました。懐かしい本ですが、翻訳が妙に表に出てきて、違うだろう、という印象を持った記憶があります。同じように、これにもなんだこの訳はというところが結構あります。たとえば、学生だった彼が教授から大学に残るように薦められるときの台詞が「真摯なる文学の徒は、みずからの才が士の理法を読み解くには向かぬことを必ずや覚るものではないだろうか」。鼻白みます。原文はどうなってるんだろう。とても豊かな言葉を持っておられることはわかりますが、「「どういう意味です?」自分の声におののきの棘を感じる」、等、ちょっと時代がかってないか。

とはいえ、「遠い哀れみと、及び腰の友愛と、おなじみの敬意がわき起こってくる。そして、気鬱な悲しみ。」、など、確かに美しい文章にも多く出会います。どうも、翻訳者の強い思い入れが、このようなかなり気合いの入った文章になったのかもしれません。後書きはこの翻訳者のお弟子さんによるもので、彼女によるとこの小説にはストーナーの悲しみが底流にある、とのことでしたが(確か)、う~ん、そうかなあ。

作者は、ストーナーのことを、文学の世界を見いだした幸せな人間として描いてるように、私には思えました。奥さんと死の直前までうまく行かなかったり、学内抗争で昇進が妨げられたりしてはいても、そういうのは普通にあること。なにより、彼は貧しい農家の息子として生まれ、父親の期待を受けて入った大学で、少々道を踏み外してたまたま古典の世界を見いだして、のめり込み、死の前日まで研究を積み重ねることができ、彼を慕う学生たちがいたわけです。作者はむしろ大学人としての共感を込めて、ほとんど肯定的に描いたのではないのかな。

翻訳がどうも先に立って、なかなか微妙に、絶賛するわけにはいかないのではないですが、ともかく印象深い小説でした。