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2016年2月20日土曜日

我々はこの社会を選んできた

チェンバロによるフーガの技法の美しい演奏に、これは誰、とサイトを見ると、Mitsuko Uchida, Shubertとなってて、違う、と力が抜けてしまう、そんな週末。2月ですが、雨がひたひた降ってます。

日常ではほとんど意識しなくてもも、危機に面したときにその人の思想が良く現れるものです。哲学者でもない限り、思想なんてほんとに意識しないものですが、311のあとに必死に書き綴っていたブログを読み返していて、しきりに出てくるのが、それは我々の選択、という言葉。避難するのか、原発を止めるべきなのか。これからの福島をどうしていくのか。

この前、Eテレのサルトルの紹介番組を見ていて、思い出しました。高校時代、彼の「嘔吐」はバイブルでした。何があんなに高校性を惹きつけたのか、懸命に何度も何度も読んでました。参考書の傍らに抱えてました。それは、かっこいいからじゃなくて、そうする必要があった、から。

人間には選択する自由がある、あるいは、だからこその人間である、ということ、だからロカンタンくんは公園のベンチで、自分が座っているものに対して吐き気を催す。だから人間には希望がある、そう何度もつぶやくことが、ほとんど異国のような高校での自分にとって必須だった、のかもしれない。今はそう思えます。

311のとき、何度も確認したのは、我々はこの社会を選んできた、原発に支えられた社会を選択してきた、こと。これは私の自由な選択であり 原発が爆発するかもしれないという危機感があったときにも、ここまでの距離を考えれば、この程度の放射能の悲惨ですんでいる時点で避難する必要は無い、それは、それこそ現存在(違う分野ののtermですが)をかけた選択でした。それは、考えてみれば、その自由は正気を保つすべ、でした。

そうか、ロカンタンに教わったのか、今頃になって、Eテレの、良くできたサルトルの番組を見ながら、ようやく納得したものです。

それにしても、サルトルの最後のインタビュー、視力を失い、死の淵にたった彼のひとこと、「世界は醜く、不正で希望が無いように見える。そういったことが、こうした世界の中で死のうとしているひとりの老人の静かな絶望だ。だが、私はこれに抵抗し、自分の中ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これを作り出さねばならない。」、まったく、なんていう知性、この格闘こそが彼の魅力でした。我々はいつでも希望を獲得することができる、そんな自由がある。実に40年ぶりに思い出しました。