書店でよく名前を見る出版社でも、行ってみると、窓の外にエアコンが少し傾いてホースがたれてて、廊下にはロッカーがおいてあるような、古いビルの一室だったりすることがあります。出版という仕事はとても難しいようで、今の時代、とくにまた読者層が限られる本に絞っているほど、困難になることは想像に難くないところ。
たまに、出版予定だった全集が完成しないままになったというのを目にしますが、ないものは余計知りたくなります。先に書いたディラン・トマス全集の第二巻もそのひとつ。出版されませんでした。1巻はもちろん詩集で、3巻は評論(+α)、4巻は戯曲(というより脚本)、とすると、この幻の2巻は小説でしょうか。書簡か、日記?そういえば、確か、ボストンの古本屋で何気なくなったペーパーバック、最初に手にして驚愕した、「仔犬のような芸術家の肖像」や「ミルクの森で」が全集にはありません。なぜにこの巻だけ刊行できなかったのでしょう?
この全集は国文社という出版社が出してます。この会社のウィキペディアに載ってる主な出版目録というのがまたすごい。
ポリロゴス叢書
アウロラ叢書
アルベール・ベガン著作集
等々、ちっとも知らない。。。
名前に馴染みがあるのは、ディラントマス以外ではリルケくらい。それも書簡集。これで経営が成り立つのかと、人ごとながら畏怖の念すら感じます。ウィキペディアの補注を見ると、この経営者の息子がタレントの高田文夫だとか。ものすごいギャップだけど、なんとなく、そうか、という気もします。
だけど、会社のサイトに行くと、さすがにもっと一杯出してて、なんと、牧野虚太郎詩集(!)や森川義信詩集、さらには再版された一連の荒地詩集をだしてくれたところでした。同じ出版社だったのか。。。これらの詩集を買った日のことは良く覚えてます。こういうのを出版できる日本文化のすごさを感じたものです。即買いして、多少は売り上げに貢献したかな。それにしてもウィキペディアのこの記事、省略しすぎ。あんまりなので直してあげる?
目録の中には「日本海軍艦艇公式図面集」や「ルネサンスの活字本」などがあります。相当、不思議な出版社。共通点はまず売れないだろうということ。外国文学が多いようですが、どれも相当マイナー。「テーベの埋葬」というのがありますが、これはソフォクレスのアンティゴネーの変奏で、人間の法と神の法の相克を意味し、ジョージ・ブッシュによるイラク侵攻と重なってる、とのこと。う~ん、これは一度行ってみなければ。
経営的な理由で、第2巻は出せなかったのかなとも思ってましたが、権利の問題かもしれません。ともかくそんなのより、誰が翻訳をしたのでしょう。あとで、どこかから出されたのかな。翻訳者にとってはもちろんですが、社会にとっても貴重な財産のはず。彼の作品の翻訳は想像を絶する作業のはず。ただそれだけに日本語に移し替える喜びは格別なはず。
国文社の編集者だった人が、その辺の話を書いてくれたら、速攻で買います。輝かしい言葉の裏には、見慣れた日常の営みがあるわけで、下世話な話であっても、どういう人たちがこの作品を支えてきたのか、知りたい。
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2018年5月19日土曜日
これは冬の物語である
ギアを掛け違えて、眠れない夜ふけ。うっかり、村上春樹のアンダーグランドを開いてしまい、目が余計にさえそうになって、あわててこちらに。開くべきは、やはりディラン・トマス。修復。
「 これは冬の物語であるーーー 」
有名なこの出だし。時季外れだが、異様に寒くなった今日には悪くない。
「 雪で何も見えぬ黄昏が 盃のような谷間の農場から
湖と浮かぶ野原の上を渡ってゆく、
手につつまれた雪片を抜けて風も立てずに滑りながら、
ひそやかに流れる牛の白い息、」
松田幸雄氏のみごとな翻訳によるディラン・トマス全詩集-しかもこれには丁寧な「訳注」、すべての詩についての説明がついていて-本をばらす踏ん切りがなかなかつかず、aura oneにいれたのはつい最近。読みたいときに読むことができることが何よりも貴重。
なんという豊穣。ウェールズに立ち、この世の輝きを謳い続けた、ウェールズの詩人は、どんなときにでも、不思議なくらいにそのことに立ち返らせてくれます。
後期の「脚長の餌の唄」から、終章
「さよなら、幸せに、と太陽と月が
陸で途方に暮れる漁師に 光を投げた。
男は自分の脚長の心臓を手ににぎり
家の戸口に独り立っている。」
違うか・・・ メスだし。
「 これは冬の物語であるーーー 」
有名なこの出だし。時季外れだが、異様に寒くなった今日には悪くない。
「 雪で何も見えぬ黄昏が 盃のような谷間の農場から
湖と浮かぶ野原の上を渡ってゆく、
手につつまれた雪片を抜けて風も立てずに滑りながら、
ひそやかに流れる牛の白い息、」
松田幸雄氏のみごとな翻訳によるディラン・トマス全詩集-しかもこれには丁寧な「訳注」、すべての詩についての説明がついていて-本をばらす踏ん切りがなかなかつかず、aura oneにいれたのはつい最近。読みたいときに読むことができることが何よりも貴重。
なんという豊穣。ウェールズに立ち、この世の輝きを謳い続けた、ウェールズの詩人は、どんなときにでも、不思議なくらいにそのことに立ち返らせてくれます。
後期の「脚長の餌の唄」から、終章
「さよなら、幸せに、と太陽と月が
陸で途方に暮れる漁師に 光を投げた。
男は自分の脚長の心臓を手ににぎり
家の戸口に独り立っている。」
違うか・・・ メスだし。
2018年5月3日木曜日
長編読み
すっかり長編読みに戻りました。長らく忘れてましたが、若い頃に、本屋で買うときは分厚さも本の選別の大事なファクターでした。3センチ以上あるとそれだけで惹かれたものです。吉里吉里人のように、上下2段組で4センチある本に出会ったときの幸せな気持ちは忘れられません。
だけど、いつ頃からか、短いものしか読まなくなってました。なぜだろう。哲学的な理由なんてあるはずもなく、寝る前しか読めないから、単純に、寝て読むから重たい本を持つのがしんどくなったから、のような気がします。それと老眼になったので、照明がちゃんとされてないと読みにくくなったのもあるかな。ただ、それまであまりまともに読んでなかった詩を、まじめに読むようになったのは、ありがたい副産物でしたが。でも詩人がそんなこと聞いたら悲しむだろうな。
夜中に、灯りを消して、aura oneをつけると、それしか目に入らず、完全に本の世界。軽いし、文字も物理本と同じくらいの大きさで、また電子本と違って文字がChainLPで加工すれば鮮明になり、照明も文字しか見えない、完璧な状態。本を読む人といえば、天井までの本棚に囲まれて、重たい本をかかえてソファや机に持ってきてランプをあてて、という映画のようなイメージがありますが、この230gがすべての物理的仕様にとってかわりました。本の持つ雰囲気はないですが、本の中身なら、これこそが、ものすごく大げさにいえば、これまで読書人が待ち焦がれていたもの。
ともかく。ポール・オースターを読んで、次、どうしようかと思ったのは、ノルウェイの森。村上春樹の長編といえば、これを外すわけにはいきません。だけど読むべきか。若い頃、熱心に読んだこの本には、いろんな思い入れもあります。でも、やはり読まない選択はなし。何十年ぶりに開きました。最初の数ページ、こんなのを彼は書いてたのかと思うほど寒くて、なるほどこの頃、アンアンにエッセイ書いたりしてたのも納得でしたが、でもそれははじめの章だけ。
何十年ぶりに出会う、ワタナベくんは、若い頃、出会ったときとはまったく違う顔をしていました。その頃も思いましたが、これはトーマス・マンの「魔の山」をイメージして書かれたように思います。おそらく、このドイツ伝統の教養小説の型を借りて、純真な青年ハンス・カストルプくんが、山の中のサナトリウムで、二つの相反する理念、肉体と芸術、善と悪、神と悪魔、激しく対立するイデアの中に身を置いて、成長していく、そんな型を借りようとしたのかもしれません。実際に、ワタナベくんはこの本を持って山の中の療養所に行き、読みふけっています。
ただ、それは型を借りただけ。魔の山で、何より圧倒的なのが「雪」の章。ハンス・カストルプくんは、激しい雪の吹き付ける森の中を彷徨い、そこで、いろんなものが相反するこの世界の成り立ちを、深く納得します。そして山を下り、第一次世界大戦の中に身を置き、シューベルトを口ずさみながら、野原を行軍します。賛否の割れる終章ですが、これはトーマスマンの出したひとつの答えでした。
だけどこのワタナベくんの物語では、答えは与えられません。廃店間際の本屋さんでの、何とも楽しく愉快な緑との会話から、直子とレイコさんと過ごす療養所での最初で最後の一夜、限りなく美しく、幸福な喜びに満ち、永遠に続くだろうと思ったその夜のこと。ただ、その中には何かひんやりするものが混じっていて。山を下りたワタナベくんの元に届いたのは、直子の死の知らせ。
北にさまよい歩き海辺の小屋に寝泊まりして、心優しい漁師の勘違いに、ふと我に返ってかろうじて戻ってきた街では、生きる接点となった緑さんとのつながりもほぼ切れそうになり、激しい混乱のままに、この物語は終わります。何の解決もなく。
ご本人があとがきで断っているとおり、これはかなり個人的な小説だそうです。だから、他の彼のどの物語とも違っていて、魔の山の形を借りて語りはじめたのかもしれない。だけど、ワタナベくんの立ち尽くす姿は、ハンス・カストルプのように新たな世界にたち向かうことができない、誰もが直面する、この世のもうひとつの難しさ。だからこそ、彼の文学が世界中で読まれてきたのでしょう。
かつて読んだときは、どんどん出てくる露骨な性描写のほうに目を奪われて、なんともうらやましいことよという思いが先に立ち、とてもまともに読めてなかったこともあるだろうし、昔の彼女が同じ名前だったという、なんともよくある話も、感情抜きには読むことを難しくしてたのかもしれません。
ともかく、今、羊をめぐる冒険を読み終えたあとで、ワタナベくんの悲しい記憶が、ようやく普遍性を持って響いてきました。どことなく、これは、前に書いた、「ユキの日記」、心の壊れていく様を記した少女の心の記録と重なるところがあります。
解決には死を選ぶしかなかった直子とキズキは、いつの時代でも、若者の一つの姿。一体、どうやって我々はそこから抜け出してきたのだろう。
だけど、いつ頃からか、短いものしか読まなくなってました。なぜだろう。哲学的な理由なんてあるはずもなく、寝る前しか読めないから、単純に、寝て読むから重たい本を持つのがしんどくなったから、のような気がします。それと老眼になったので、照明がちゃんとされてないと読みにくくなったのもあるかな。ただ、それまであまりまともに読んでなかった詩を、まじめに読むようになったのは、ありがたい副産物でしたが。でも詩人がそんなこと聞いたら悲しむだろうな。
夜中に、灯りを消して、aura oneをつけると、それしか目に入らず、完全に本の世界。軽いし、文字も物理本と同じくらいの大きさで、また電子本と違って文字がChainLPで加工すれば鮮明になり、照明も文字しか見えない、完璧な状態。本を読む人といえば、天井までの本棚に囲まれて、重たい本をかかえてソファや机に持ってきてランプをあてて、という映画のようなイメージがありますが、この230gがすべての物理的仕様にとってかわりました。本の持つ雰囲気はないですが、本の中身なら、これこそが、ものすごく大げさにいえば、これまで読書人が待ち焦がれていたもの。
ともかく。ポール・オースターを読んで、次、どうしようかと思ったのは、ノルウェイの森。村上春樹の長編といえば、これを外すわけにはいきません。だけど読むべきか。若い頃、熱心に読んだこの本には、いろんな思い入れもあります。でも、やはり読まない選択はなし。何十年ぶりに開きました。最初の数ページ、こんなのを彼は書いてたのかと思うほど寒くて、なるほどこの頃、アンアンにエッセイ書いたりしてたのも納得でしたが、でもそれははじめの章だけ。
何十年ぶりに出会う、ワタナベくんは、若い頃、出会ったときとはまったく違う顔をしていました。その頃も思いましたが、これはトーマス・マンの「魔の山」をイメージして書かれたように思います。おそらく、このドイツ伝統の教養小説の型を借りて、純真な青年ハンス・カストルプくんが、山の中のサナトリウムで、二つの相反する理念、肉体と芸術、善と悪、神と悪魔、激しく対立するイデアの中に身を置いて、成長していく、そんな型を借りようとしたのかもしれません。実際に、ワタナベくんはこの本を持って山の中の療養所に行き、読みふけっています。
ただ、それは型を借りただけ。魔の山で、何より圧倒的なのが「雪」の章。ハンス・カストルプくんは、激しい雪の吹き付ける森の中を彷徨い、そこで、いろんなものが相反するこの世界の成り立ちを、深く納得します。そして山を下り、第一次世界大戦の中に身を置き、シューベルトを口ずさみながら、野原を行軍します。賛否の割れる終章ですが、これはトーマスマンの出したひとつの答えでした。
だけどこのワタナベくんの物語では、答えは与えられません。廃店間際の本屋さんでの、何とも楽しく愉快な緑との会話から、直子とレイコさんと過ごす療養所での最初で最後の一夜、限りなく美しく、幸福な喜びに満ち、永遠に続くだろうと思ったその夜のこと。ただ、その中には何かひんやりするものが混じっていて。山を下りたワタナベくんの元に届いたのは、直子の死の知らせ。
北にさまよい歩き海辺の小屋に寝泊まりして、心優しい漁師の勘違いに、ふと我に返ってかろうじて戻ってきた街では、生きる接点となった緑さんとのつながりもほぼ切れそうになり、激しい混乱のままに、この物語は終わります。何の解決もなく。
ご本人があとがきで断っているとおり、これはかなり個人的な小説だそうです。だから、他の彼のどの物語とも違っていて、魔の山の形を借りて語りはじめたのかもしれない。だけど、ワタナベくんの立ち尽くす姿は、ハンス・カストルプのように新たな世界にたち向かうことができない、誰もが直面する、この世のもうひとつの難しさ。だからこそ、彼の文学が世界中で読まれてきたのでしょう。
かつて読んだときは、どんどん出てくる露骨な性描写のほうに目を奪われて、なんともうらやましいことよという思いが先に立ち、とてもまともに読めてなかったこともあるだろうし、昔の彼女が同じ名前だったという、なんともよくある話も、感情抜きには読むことを難しくしてたのかもしれません。
ともかく、今、羊をめぐる冒険を読み終えたあとで、ワタナベくんの悲しい記憶が、ようやく普遍性を持って響いてきました。どことなく、これは、前に書いた、「ユキの日記」、心の壊れていく様を記した少女の心の記録と重なるところがあります。
解決には死を選ぶしかなかった直子とキズキは、いつの時代でも、若者の一つの姿。一体、どうやって我々はそこから抜け出してきたのだろう。
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