だけど、いつ頃からか、短いものしか読まなくなってました。なぜだろう。哲学的な理由なんてあるはずもなく、寝る前しか読めないから、単純に、寝て読むから重たい本を持つのがしんどくなったから、のような気がします。それと老眼になったので、照明がちゃんとされてないと読みにくくなったのもあるかな。ただ、それまであまりまともに読んでなかった詩を、まじめに読むようになったのは、ありがたい副産物でしたが。でも詩人がそんなこと聞いたら悲しむだろうな。
夜中に、灯りを消して、aura oneをつけると、それしか目に入らず、完全に本の世界。軽いし、文字も物理本と同じくらいの大きさで、また電子本と違って文字がChainLPで加工すれば鮮明になり、照明も文字しか見えない、完璧な状態。本を読む人といえば、天井までの本棚に囲まれて、重たい本をかかえてソファや机に持ってきてランプをあてて、という映画のようなイメージがありますが、この230gがすべての物理的仕様にとってかわりました。本の持つ雰囲気はないですが、本の中身なら、これこそが、ものすごく大げさにいえば、これまで読書人が待ち焦がれていたもの。
ともかく。ポール・オースターを読んで、次、どうしようかと思ったのは、ノルウェイの森。村上春樹の長編といえば、これを外すわけにはいきません。だけど読むべきか。若い頃、熱心に読んだこの本には、いろんな思い入れもあります。でも、やはり読まない選択はなし。何十年ぶりに開きました。最初の数ページ、こんなのを彼は書いてたのかと思うほど寒くて、なるほどこの頃、アンアンにエッセイ書いたりしてたのも納得でしたが、でもそれははじめの章だけ。
何十年ぶりに出会う、ワタナベくんは、若い頃、出会ったときとはまったく違う顔をしていました。その頃も思いましたが、これはトーマス・マンの「魔の山」をイメージして書かれたように思います。おそらく、このドイツ伝統の教養小説の型を借りて、純真な青年ハンス・カストルプくんが、山の中のサナトリウムで、二つの相反する理念、肉体と芸術、善と悪、神と悪魔、激しく対立するイデアの中に身を置いて、成長していく、そんな型を借りようとしたのかもしれません。実際に、ワタナベくんはこの本を持って山の中の療養所に行き、読みふけっています。
ただ、それは型を借りただけ。魔の山で、何より圧倒的なのが「雪」の章。ハンス・カストルプくんは、激しい雪の吹き付ける森の中を彷徨い、そこで、いろんなものが相反するこの世界の成り立ちを、深く納得します。そして山を下り、第一次世界大戦の中に身を置き、シューベルトを口ずさみながら、野原を行軍します。賛否の割れる終章ですが、これはトーマスマンの出したひとつの答えでした。
だけどこのワタナベくんの物語では、答えは与えられません。廃店間際の本屋さんでの、何とも楽しく愉快な緑との会話から、直子とレイコさんと過ごす療養所での最初で最後の一夜、限りなく美しく、幸福な喜びに満ち、永遠に続くだろうと思ったその夜のこと。ただ、その中には何かひんやりするものが混じっていて。山を下りたワタナベくんの元に届いたのは、直子の死の知らせ。
北にさまよい歩き海辺の小屋に寝泊まりして、心優しい漁師の勘違いに、ふと我に返ってかろうじて戻ってきた街では、生きる接点となった緑さんとのつながりもほぼ切れそうになり、激しい混乱のままに、この物語は終わります。何の解決もなく。
ご本人があとがきで断っているとおり、これはかなり個人的な小説だそうです。だから、他の彼のどの物語とも違っていて、魔の山の形を借りて語りはじめたのかもしれない。だけど、ワタナベくんの立ち尽くす姿は、ハンス・カストルプのように新たな世界にたち向かうことができない、誰もが直面する、この世のもうひとつの難しさ。だからこそ、彼の文学が世界中で読まれてきたのでしょう。
かつて読んだときは、どんどん出てくる露骨な性描写のほうに目を奪われて、なんともうらやましいことよという思いが先に立ち、とてもまともに読めてなかったこともあるだろうし、昔の彼女が同じ名前だったという、なんともよくある話も、感情抜きには読むことを難しくしてたのかもしれません。
ともかく、今、羊をめぐる冒険を読み終えたあとで、ワタナベくんの悲しい記憶が、ようやく普遍性を持って響いてきました。どことなく、これは、前に書いた、「ユキの日記」、心の壊れていく様を記した少女の心の記録と重なるところがあります。
解決には死を選ぶしかなかった直子とキズキは、いつの時代でも、若者の一つの姿。一体、どうやって我々はそこから抜け出してきたのだろう。