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2019年5月25日土曜日

聖ジュネ

斧が私の首を切るずっと前に、
わたしのなかで死んだ朗らかな子供

実家に帰ったときに持ち帰ってきた新潮文庫の「聖ジュネ」、このサルトルの本、実に懐かしい。高校生の頃、懸命に読んでたものです。相当ハードで、ほんとに懸命に読んでました。最初から読めば実はそこまで難渋なものでもないのですが、適当に開いて途中から読むと、ほぼ意味がつかめない。

だけど、これは救いでもありました。なぜだかわからないけど、それは、たとえば、この聖ジュネの第一章の章題、実はこれは、ジャン・ジュネの書いた詩の一節。訳も素晴らしい。何かあると、よくこの言葉を思いうかべてました。これがこの本、ジャン・ジュネの評伝の主題です。この長大な本では、繰り返し、この解題が行われます。だから、高校生でも読めたのかもしれない。

「幼年時代のある思い出に関してある事件が彼の身に起きて、この思い出は神聖なものになった。 若年に宗教の儀式に似たドラマが演じられ、彼はそのドラマの祭司となった。つまり彼は楽園を識ったが、それを見失った。子供であったが、幼年時代から追放されたのである。」

ジャン・ジュネは若い頃、札付きの犯罪者で、何度も投獄され、だけど悔い改めるどころか、脱走を繰り返し、犯罪を賞賛し、ついには終身刑が科せられようとしていたころに(フランスでは10回有罪になると無期懲役になるという制度があるそうで)、サルトルやコクトーらの請願により恩赦されました。彼はちっとも喜びませんでしたが。

不幸な幼年時代、何が彼を犯罪に向かわせたのか、なぜ彼は描いたのか、なぜ彼は悔いることなく犯罪を繰り返し、それを称えたのか、この本のmotivationはそこにあります。だけどジャン・ジュネの小説や戯曲のほうは私にはちっとも面白くなく、数ページ以上読めたこともありません。詩は、冒頭の句は素晴らしいけど、訳にも寄るのでしょうが、あまり感じるものはありません。ただこれは単に私には縁遠いというだけで、仏文科の卒業論文には数多く、彼を対象にしたものがあるに違いありません。この「聖ジュネ」はその頂点でしょう。

彼を理解しようとするサルトルの試みは素晴らしく感動的なほど。そして、その行為は不思議な魅力に満ちています。今でも、改めてそう思うくらい。読むほうに進歩がなさすぎだろう、というのはさておき。

ただ、これを読んだジャン・ジュネはショックを受け、その後ほとんど書けなくなります。それはそうだろう。ここまで分析され、解決されると、これ以上何を生む必要があるのか。研究と同じようなものです。彼を、評伝、分析対象とするには余りにも早かった。知性とは残酷なものです。