311のときには陸路の輸送がたたれて、多くの物資の輸送が滞りました。この結果、いろんな事が起きました。ちょっとできすぎた気もするわけですが、ともかく聞いたとおりに書くと、当時、宮城に物資を運ぼうとしていたunderarmourという会社の車が、いわきのところでそれから北に行けなくなり、立ち往生したそうです。当時のいわき市は大変なことになっていた原発に隣接し、危機的な状況でした。この会社はメリーランド大で元フットボールをしていたケビン・プランクが創設して、いまや世界的なブランドになったスポーツ下着のメーカーです。
そのときに車に乗っていたのがその日本総代理店となる「ドーム」の日本人COE。とにかく、いわきにとどまらざるをえなくなり、ふとあたりを見渡すと、ビジネスチャンスとしてのその土地、いわき市のメリットに気がついたということのようです。
たしかに輸送のことを考えるといわき市は東京に近く、冬暖かく夏涼しいので空調にかける費用が比較的少なくてすみ、港もあります。アンダーアーマーはそこに日本のビジネス拠点を置く決心をして、同時に自分たちの作るスポーツウェアを着るサッカーチームを育てることにしました。それだけでなく、その名の通り、ドーム型のスタジアムを作り、Jリーグを目指して、周囲には60店舗の店が並ぶモールをおいて、試合の日だけで無く、普通に人々で賑わう、街の拠点を作りたいという、夢のような構想を立てました。もちろん、いわき市はもろてをあげて支援を約束しています。
そこには、サッカーをエネルギーにした一つのコミュニティを作りたいという、元スポーツマンらしい願いもあります。そこで、いわきFCを買い取り、元オランダ代表のピーター・ハウストラを監督に呼び、地域リーグとして再出発することにしました。そして、チームを育ててスポンサーになるだけでなく、すべてのスポーツ選手の直面する最大の問題である、選手後のセカンドキャリアも同時に可能性を広げられるように、様々な仕掛けを考案してきています。今は選手は地域リーグでプロではないので、いわきFCの選手は彼らのスポーツウェアの会社で働けるようになっているというのもその第一歩。
また、郡山にある英会話を中心としたランゲージスクールもスポンサーにつけて選手たちが英語を学べるようにしています。同じようにJ1のベガルタ仙台もこの会社と契約して、選手たちは熱心に学んでいるとか。サッカーと英会話スクール、妙な感じもしますが、これにはいくつもメリットがあり、海外のチームとの交流において有効ですし、セカンドキャリアの可能性も広げます。
実際に、英国(スコットランド)グラスゴーのチーム、グラスゴーレンジャーズが日本の開拓にやってきていて、その英会話スクールの会社にまず日本の入り口としてコンタクトして、その社長が間に入って交渉を引き受けて、ベガルタといわきFCに選手を派遣し、また、スコットランドにも選手を送る事になったようです。この社長はグラスゴー出身で、震災でも日本にとどまり英語教育活動を活発にしているところが目にとまったらしい。
このとき、福島ユナイテッドにも交渉したそうですが、興味を示さなかったとのことです。とってもがっかり。選手にとっても福島市にとっても大きなチャンスだったのに。これは経営者のビジョンの問題。これまでユナイテッドのサポでしたが、いわきFCに乗り換えようかな。ともかく、福島に2つのチームが競合することになれば、それは素晴らしいですが。
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2016年5月29日日曜日
2016年5月24日火曜日
感受体のおどり
abさんご以前と、以後とはまるで世界が違う可能性があるようにすら思えます。黒田夏子について、蓮實 重彦は、若い文学であることをこの前書いた会見の中で述べてました。そうかもしれない。
電子ブック、それもhontoで購入したものしか「abさんご」は持ってませんでした。ですが、あとで本も買いました。こんなことは初めて。普通は自炊して電子ブックで読んでも印象は変わらないものですが、abさんごは随分違う印象。おそらくそれは、あまりにも他の本と違っていて開かないとわからないからなのかもしれません。
13年の暮れに出された「感受体のおどり」は、最近になってはじめて知りました。「abさんご」は、ただただ奇跡としか思えませんでしたが、ここで黒田夏子が示したのは、「abさんご」とは文体を獲得した証であり、その記念日だった、ということでしょうか。「感受体のおどり」、この分厚い創作は、まさに源氏物語。あるいは聖書のよう。この世界は確実に存在し、100年たってもそれは古びないであろうことを確信させます。なぜか、この本は、この世界の救いのよう。
「・・・・まだ私のうしろに四つしか夏がなかった。五つ目の夏に識ったあのやるせなさを、あの土地に住んだ夏ごとに反芻した。太鼓がなつかしいのとも夏がなつかしいのともちがった。一つ幼かったじぶんがなつかしいというのでもなかった。はじめなければならない生を、耐えうるはるかさからよもしてきた宵の匂い、取って返すことのならない時間の哀しみにふと素手でさわってしまった宵の匂い、ただそのあえかさになぶられた。・・・」
はたしてこの本を裁断してInkPadにいれるものかどうか・・
電子ブック、それもhontoで購入したものしか「abさんご」は持ってませんでした。ですが、あとで本も買いました。こんなことは初めて。普通は自炊して電子ブックで読んでも印象は変わらないものですが、abさんごは随分違う印象。おそらくそれは、あまりにも他の本と違っていて開かないとわからないからなのかもしれません。
13年の暮れに出された「感受体のおどり」は、最近になってはじめて知りました。「abさんご」は、ただただ奇跡としか思えませんでしたが、ここで黒田夏子が示したのは、「abさんご」とは文体を獲得した証であり、その記念日だった、ということでしょうか。「感受体のおどり」、この分厚い創作は、まさに源氏物語。あるいは聖書のよう。この世界は確実に存在し、100年たってもそれは古びないであろうことを確信させます。なぜか、この本は、この世界の救いのよう。
「・・・・まだ私のうしろに四つしか夏がなかった。五つ目の夏に識ったあのやるせなさを、あの土地に住んだ夏ごとに反芻した。太鼓がなつかしいのとも夏がなつかしいのともちがった。一つ幼かったじぶんがなつかしいというのでもなかった。はじめなければならない生を、耐えうるはるかさからよもしてきた宵の匂い、取って返すことのならない時間の哀しみにふと素手でさわってしまった宵の匂い、ただそのあえかさになぶられた。・・・」
はたしてこの本を裁断してInkPadにいれるものかどうか・・
2016年5月18日水曜日
三島賞を蓮實重彦がもらうと
今年の三島賞に決まった蓮實重彦氏の会見が秀逸。かつて東大総長として入学式で、ほとんど字幕ルビ無しでは理解できないような難解な祝辞をおくった気骨の文学者らしい。
受賞を聞いてどのような感想を持ったかと聞かれて、「個人的なことなので申しあげません」。審査員の町田庸のコメントに対して感想はと聞かれ、「ありません」。記者団に他に質問はと司会がふると「ないことを期待します」。受賞について喜んでいらっしゃるんでしょうかと聞くと、「まったくよろこんでおりません。はた迷惑なことだと思っています」。この上ない。
その理由が説明されたので、ならば今の文化の状況にものたりなさをかんじているのかと聞かれて「いえ、それはありません」。それでも聞き出す司会がかろうじて引き出した、「『今晩だけはジャズのレコードを大きくかけるのはやめてくれ』と両親に言われたという話があり、その話を読んだときに、私はその方に対するおおいな羨望(せんぼう)を抱きまして」という、彼らしいコメントに、ではいつ頃書きたいと思ったのかと聞かれると、「書きたいなとは一度も思っておりません」。
かつて、ここまでの受賞コメントを述べた人はいないような気がする。奇妙な格好をしてみた人はいたが。それにしても、黒田夏子のabさんごの選考にも彼が関わったとは知らなかった。あれはすごい作品。いまだに新鮮で、たまに、その冒頭の文章が思い浮かびます。
蓮實重彦はかつてぱらぱらとめくっただけで、まともに読んだこともありません。ましてや小説を書いてるとも知らなかった。読んでみなければ。でも調べると、まだ出てなくてがっかり。ともかく、この人は、学問することはかっこいいことだと、80才の今でも全身で伝えている。最高だ。
受賞を聞いてどのような感想を持ったかと聞かれて、「個人的なことなので申しあげません」。審査員の町田庸のコメントに対して感想はと聞かれ、「ありません」。記者団に他に質問はと司会がふると「ないことを期待します」。受賞について喜んでいらっしゃるんでしょうかと聞くと、「まったくよろこんでおりません。はた迷惑なことだと思っています」。この上ない。
その理由が説明されたので、ならば今の文化の状況にものたりなさをかんじているのかと聞かれて「いえ、それはありません」。それでも聞き出す司会がかろうじて引き出した、「『今晩だけはジャズのレコードを大きくかけるのはやめてくれ』と両親に言われたという話があり、その話を読んだときに、私はその方に対するおおいな羨望(せんぼう)を抱きまして」という、彼らしいコメントに、ではいつ頃書きたいと思ったのかと聞かれると、「書きたいなとは一度も思っておりません」。
かつて、ここまでの受賞コメントを述べた人はいないような気がする。奇妙な格好をしてみた人はいたが。それにしても、黒田夏子のabさんごの選考にも彼が関わったとは知らなかった。あれはすごい作品。いまだに新鮮で、たまに、その冒頭の文章が思い浮かびます。
蓮實重彦はかつてぱらぱらとめくっただけで、まともに読んだこともありません。ましてや小説を書いてるとも知らなかった。読んでみなければ。でも調べると、まだ出てなくてがっかり。ともかく、この人は、学問することはかっこいいことだと、80才の今でも全身で伝えている。最高だ。
2016年5月4日水曜日
この横顔
この猫は横顔がかわいい。前住んでいた山の中の住宅地に捨てられてたこの兄弟たち、みんな真っ黒だったけど、この横顔はこの猫だけだった、かどうかはしりませんが。5匹くらいはいたと思います。集まったところなんか見たことないし、ありえないだろうし、わかるわけもないですが。
たぶん、山の中の、これだけ穏やかな住宅街なら誰か拾ってくれるんじゃないかということで捨てたのでしょう。どうしても飼えなくなったんでしょうね、ひどいけど、辛かったろうな。でも、どれだけ生き残ったんだろう。一番よく目にした活動的なかわいい猫は、早い時期に車にひかれて、とても辛い場面を目にしました。あと一匹、うちの住民となったこの子がまだ庭の温室住まいしてたころ、その餌を狙って何度も攻撃してきました。兄弟ながら、厳しい世界です。
あと一匹、首輪をしてたのもいました。その子は、少なくともどこかに引き取られてたはず。他に、ちらちら姿を現していたものもいました。でも、福島では、外猫に冬は厳しい。山に行けば食べるものは見つかっても、冬を切り抜けるのも、車を逃れるのも、そう長くは続きません。家猫になって幸せに暮らしてればと願うばかり。
兄弟の中で、一番小さくて弱かったのがこの猫でした。体のなりが小さく、筋力が無いので、ジャンプして飛べる高さも、せいぜい椅子くらい。5ヶ月間くらいを、外でよく生き延びたものです。小さくて活動的でなくて、何かあぶなそうなことを察知すると黙ってじっとしてるのが逆に良かったのでしょう。進化は必ずしも強くて大きなものが有利なわけではない、ということの生きる証のような(おおげさ)ものかと。
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