abさんご以前と、以後とはまるで世界が違う可能性があるようにすら思えます。黒田夏子について、蓮實 重彦は、若い文学であることをこの前書いた会見の中で述べてました。そうかもしれない。
電子ブック、それもhontoで購入したものしか「abさんご」は持ってませんでした。ですが、あとで本も買いました。こんなことは初めて。普通は自炊して電子ブックで読んでも印象は変わらないものですが、abさんごは随分違う印象。おそらくそれは、あまりにも他の本と違っていて開かないとわからないからなのかもしれません。
13年の暮れに出された「感受体のおどり」は、最近になってはじめて知りました。「abさんご」は、ただただ奇跡としか思えませんでしたが、ここで黒田夏子が示したのは、「abさんご」とは文体を獲得した証であり、その記念日だった、ということでしょうか。「感受体のおどり」、この分厚い創作は、まさに源氏物語。あるいは聖書のよう。この世界は確実に存在し、100年たってもそれは古びないであろうことを確信させます。なぜか、この本は、この世界の救いのよう。
「・・・・まだ私のうしろに四つしか夏がなかった。五つ目の夏に識ったあのやるせなさを、あの土地に住んだ夏ごとに反芻した。太鼓がなつかしいのとも夏がなつかしいのともちがった。一つ幼かったじぶんがなつかしいというのでもなかった。はじめなければならない生を、耐えうるはるかさからよもしてきた宵の匂い、取って返すことのならない時間の哀しみにふと素手でさわってしまった宵の匂い、ただそのあえかさになぶられた。・・・」
はたしてこの本を裁断してInkPadにいれるものかどうか・・