わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む
三浦雅士の「鏡の中の言葉」に引かれていた、寺山修司の初期歌篇のなかの一首。
知らなかった。彼らしい斬新な予感にあふれています。ひっそりとした光景ですが、いつも物語はそこからはじまる、そんなことを、この早熟な少年が意識してよんだのかどうか。まるで、村上春樹の「世の終わり・・」の終章近くに登場する、森と街の境に住んで、小さな発電所を守る番人のよう。
もしかするとこの初期歌篇はあまりよく読んでなかったのかもしれません。そういうのが残っていると、うれしくなります。
わが内にわれにひとりの街があり夏蝶ひとつ忘られ翅くる
最後のところは、とびくる、と読みます。三浦雅士が指摘するように、そこには、「われ」という宇宙を見つけた少年の心の高揚があります。方法を見つけた、まるで新しい実験方法をみつけた研究者のように。
それにしても三浦雅士はうらやましい。寺山修司と話して、彼を批評し、天井桟敷も体験してきたなんて。こういう天才は、無用な細部に至るまで照らされてつまびらかにされる今の時代となっては、もはや二度と現れないかもしれない。