なかなかこれといった本に巡りあわず。そんな中、たまたま開いたシャーウッド・アンダーソンの「ワインズバーグ、オハイオ」。知らないはずはないのです、この作家。「アンダーソン短編集」は、実家の本棚に今もあります。だけど、中身はほとんど覚えてない。確か、この本を買った頃はフォークナーにはまっていて、その流れで買ったのかもしれない。マッカラーズと一緒に(そういえば、今、「心は寂しい狩人」を読んだらどう感じるだろう)。
「「いいかい、女なんだよ。女がここにいるんだ!そして、美しい人なんだ!女は傷つき、苦しんでいるけど、音は立てていない。それがどういう状態かわからないかい?女は静かに横たわっている。真っ白で、微動だにしない。そして女から美が流れ出て、すべてを覆っているんだ。この背後の空にも美があるし、そこらじゅうにひろがっている。もちろん、僕はその女を描こうとしなかった。美しすぎて描けないんだ。構成だとか、そういうことを話すのって、なんてつまらないんだろう!どうしておまえらは空を見上げ、走って逃げたりしないんだ?オハイオ州ワインズバークで僕が少年時代にやったように。」
そういったことを、若きイーノック・ロビンソンは言いたくて震えていたのだ。ニューヨーク市で過ごした青年時代、彼の部屋を訪ねてくる客たちに向かって言いたかったのだが、結局のところ何も言わなかった。・・・」(「孤独」、上岡伸雄訳)
オハイオの架空の街、ワインズバーク、地元紙の編集長助手ジョージ・ウェイラードの周りに起きる、ごく些細な、だけど切実な物語が淡々と語られます。まるでアルトマンのショートカットのように。この本、ずっと前に買って本棚に並んでたのを裁断してKobo aura oneの中にしまい込み、次を漁っていた中で見つけた作品でした。読んでるときは現代の作家かと思ってましたが、フォークナーにも影響を与えた人だとか。アメリカ文学を語る上では重要な作家らしい。
アマゾンのこの本のところを改めてみると、この本のコメントに、エドワード・ホッパーの絵が好きな人ならこれはきっと好き、とあって、ものすごく同感。そうなんです、広い、何にもないところにぽつんと一軒の家が建っている、そんなアメリカの原風景を描き続けたホッパーは、とても好きな画家。画集をばらして部屋に張ってました。
上にあげたのは、ワインズバーク生まれの絵画の才能のある穏やかな青年イーノックが、21才のときにニューヨークに出てきたときの話。多くの芸術家仲間が部屋に来るようになり繰り広げられる芸術談義の中でも自分は乗ることができず、次第にドアに鍵をかけるようになり、 結婚もうまく行かず、そのうち、空想の中の人々と一緒に楽しく過ごすようになります。「どうしておまえらは空を見上げ、走って逃げたりしないんだ?」、だけど、そう伝えられない、そんな心のもどかしさ、やるせなさ。
イーノックはそうしてニューヨークでの生活を15年続け、ある出来事がきっかけで、ワインズバークに戻ります。そして、年老いたイーノックが、「歩道の上に伸びた木製の庇の下で出会った」ジョージ・ウェイラードに話す、「何一つ実現しなかった」人生の物語がこの作品です。なぜ話したのか。
「青春の悲しみ、若い男の悲しみ、年が暮れた町にいる成長期の少年の悲しみが、イーノック老人の口を開かせることになった。悲しみはジョージ・ウェイラードの心の中にあり、意味などなかったのだが、イーノック・ロビンソンの心に訴えかけた。」
この物語は、こんなふうにはじまります。
「彼はアル・ロビンソン夫人の息子だった。夫人はかつてトラニオン街道から分かれる脇道沿いに農場を持っていた。ワインズバークの東、町の境界から三キロのところである。農場の家は茶色に塗られ、道に面したすべての窓のブラインドはいつも閉ざされていた。家の前の道にはニワトリの群れがいて、二羽のホロホロチョウとともに、分厚い埃をかぶっていた。・・・・」
なんと見事な描写。
そういえば、という流れで書くようなことでないけど、自分の話。ポスドクでモントリオールに行ったとき、もう一つ、オハイオの大学からも話がありました。研究はそちらの方が惹かれたけど、やはりモントリオールという街の魅力には抗しがたく、3秒考えて、モントリオールにしました。もし、あのときオハイオに行ってたらどうなってたんだろうと、ときどき思います。ともかくモントリオールは面白かった。惹かれるという感覚は結構正しいものなんだなと思いました。
たぶん、この小説はそういうことなんです。オハイオ、というところのイメージは。今は大都市になっていて全然違う世界なんだろうけど。だけど、そんな世界に語るべき物語がある、とシャーウッド・アンダーソンは言いたかったのかもしれない。あと100年たっても人々の記憶に残る物語。
アンダーソン短編集を実家の書棚から今度かえったときに探してこよう。