「彼もまた、心のなかで、ゲール語の歌に似た自分だけの歌を歌っているのかもしれない。誰にも真意の届かない、古い言語で個人的な歌を歌っているのかもしれない。そして弁護士にしろ歯医者にしろ、われわれと同じように、彼らなりの深く暗いアフリカへはいっていくのかもしれない。」(アステリア・マクラウドの「夏の終わり」)
カナダの北の西の方、セントローレンス川が大西洋に出るところを塞ぐように横たわるノーバスコーシャ、その名の通り、スコットランドからの移民が多く住む地方を舞台にして、とても静かな物語を描いたアステリア・マクラウド。中でも、一番好きな短編がこの「夏の終わり」です。そういえば、同名の、胸を締め付けられるような美しさと哀しみに溢れる短編が、近藤紘一にありました。
彼は大学で教えていました。寡作で、アンソロジーの短編を除けば、日本では3冊しか出てません。それもそのはず、そもそも長編は1つ、短編も16個とあと少しあるかどうか。
一度だけ、ゲール語の会話を聞いたことがあります。モントリオールでポスドクをしてたころ、ラボに出入りしてた一人の学生がスコットランド出身で、自分はゲール語が通じる相手にはゲール語で話すんだと言ってました。授業の終わりだったか、彼がその数少ないゲール語のわかる友達に話してたのを、たまたま耳にしました。
とても不思議な響きでした。英語とはかけ離れた音で、いろんなヨーロッパ言語の元となったはずですが、どことも似てません。強いて言えば、ラテン語の響きを思い出しましたが、意味なんてわかるわけもなし。
上の短編は、これからアフリカの炭坑でウランを採掘に向かう前、ケープ・ブレトン、ノーバスコーシャの大きな島にある海岸沿いの白い家で、天候の変わるのを待つ父親の、つかの間の夏の休みのお話。
絶壁の上を歩きながら思い出す日々。サスカチュワンの炭坑で、自分の目の前で埋もれて死んでしまった弟のこと、遙か昔に過ぎた人生の夏。上の文章の箇所では遠くに散った子どもたちに思いをはせます。長年の激しい労働に痛めつけられた背中に時々走る激痛に身をよじらせながらも、それでも今なおアフリカに向かう自分。これも彼のゲール語の歌なのかもしれません。