かつて九大では、六本松で教養課程を終了した学生は箱崎キャンパスに移って専門課程に入ることになっていました。電停を挟んで左に向かうと文系キャンパス、右手は理系の人間の行くところでした。生協もあったので、左手にも時々行きましたが、同じ大学でありながら、そこはまったく未知の世界。
その当時は学生運動はほぼ消えかけ、それでも立て看と講義中に侵入してアジテーションする活動家、彼らのアジトとしていたサークル棟は、まだ健在でした。箱崎のメインキャンパスは医師薬系を除いた理系と文系からなり、住宅街のど真ん中にあって、絵に描いたような学生街でした。どれだけ多くの物語がここで生まれたことでしょうか。
住民に迷惑をかけたことも数限りなくあったはず。でも、おおかた、街には温かく迎えられていた印象がありました。学生運動の激しかった頃、学生たちがよく通っていた鳥屋さんが、逃げ込んできた学生を匿って、警察を追い払ったという話もありました。この鳥屋さんはとにかく怖いおばさんがしきっていて、作法を守らないとどなられます。それで学生たちは緊張しつつも余りのうまさと安さに通ってましたが 警察もあの女将さんには恐れをなしたのでしょう。いまでは、聞いた話では、この鳥屋さんは、特別なつてがないと予約も取れないそうで、警察とか県関係者とかばかりになってるとのこと、ほんとかな。
箱崎という、博多とも少し違った文化を持った街の中の大学、これが九大の魅力でもありました。それが、福岡市の西の端にある山の中に移転してしまいました。
物事が整理され、説明つかないものが次第に消されつつある時代です。これは大学は郊外に移転することが先進的と考えられた時代に決められました。街の真ん中に大学があるので、都市の発展を邪魔してるという声も、経済界の方からでていたような記憶があります。大学側では誰が旗を振ったのかわかりません。いくら街から言われても断ることはできたはず。自分たちには関係ない先の話だからと、歴代の執行部は拒否する労と時間を惜しんだのかもしれません。巨大な資本の前には、気がついたときには、もう元には戻れなくなっていたというのもあるでしょう。
誰も行きたくはないので可能な限り先送りにされてきたという話は聞いてました。次の代までは遅らせて、と。加えて、とにかく何もなかった地域なので、交通網の整備も必要でした。予定よりどれだけ遅れたのかわかりませんが、今頃になって実現しました。移転した新キャンパスには行ったことないですが、マップで見ると確かに広い。合理的な建物が端正にならんでるのでしょう。だけど、元々、街がないところに作ったキャンパスなので、まだあまりいい話は聞こえてきません。筑波大学がつくば市を作ったように、新キャンパスが街を作るのは長い時間がかかることと思います。特に学生には気の毒。
北海道で大地震が発生したころに、ネットの記事に、取り壊すことになっている九大文系キャンパスで爆発があったと出ていました。法学部の建物でとしかなく、小さな記事でした。てっきり、学生運動系の残り香かと思ったら、続報が出て、研究室を使用していた40台の卒業生でした。大学院は中退で学位は取られてません。
法学のなかでも、専門は憲法学だったという話。その研究を続けたくて大学での非常勤などを続けていたそうです。アカデミアでのポストが厳しくなってきている中、というよりは、特に文系で学位がなくて40を超えていると大学での定職が厳しいことは今も昔も変わりません。法学なので、学位を取るには時間がかかります。非常勤講師などをしながらなんとか学位を取ってと、アカデミアにとどまろうとしていたのでしょう。
だけど時間ばかりが過ぎさり、次第に追い詰められていった彼の心持ちは、痛いくらいよくわかります。カオスが可能性として認められていた時代の終わりに、生きる余地をなくしていったのかもしれません。せめて自分で決めた最後の夜には、箱崎の街のいつも通っていた定食屋さんでゆっくりと食事されたことを願います。