番組では、対応にあたっていたスタッフが一人また一人と壊れて、泣き出していったと災害医学の教授が話してました。全くその通り、思いだしました。そこまで言うかとは思いましたが、あっさり言ってしまうのがいかにも彼らしい。
その当時、大学では、各部局から代表者が出ることになっていた全体者会議が毎日開かれ(たしか直後は朝夕と二回開かれてました)、浜通りで何が起きているか、今日明日にどのような医療が必要かを情報交換し、対応が話し合われてました。でも、最も大事な課題は、まず医者の心が壊れないようにすること。
医者でもこういうときに強い人と苦手な人がいます。これは平時の有能さとはほぼ関係なし。そこでこの会議では、危機になるほどアドレナリンが出る人が仕切ることになりました。毎回、どうしようもないようなギャグを誰かがいう事をノルマとすることで、会議では心の平穏を取り戻すことになりました。
壊れる要素はいろいろありました。これほどの災害で大勢の人が亡くなることは、医者といえども未経験だから仕方ありません。ほかにいろんなプレッシャーがありました。私にとって、おそらく多くの医師にとっても、もっとも辛かったのはガソリンがなかったことでした。水もなかったけど、大学にさえいれば飲み水に困ることはなかったし、トイレは不快だったとはいえ、それで死ぬことはないので。
ガソリンは、街ではほぼ入手できないので、各講座では、たしか40Lまで配給されてましたが、結局、うちでは使いませんでした。ただ、もし原子炉の冷却がうまく行かず大規模な爆発につながった場合、ぎりぎりまでとどまるにしても最後の段階では退避命令が出ることも想定されていました。私らはそれでも残ることにしてましたが、それにしても、ガソリンがあって行動の自由が確保された状態で残ることを選択することと、それがないままで、つまり残るしかないこととは、精神的に大きな違いがあります。
原子炉の中の温度に一喜一憂するなか、気持ちを軽くしてくれたのは、近くの講座の若い人が、残り少ないガソリン使って、温泉行ってきましたよ、と脳天気に話してくれたこと。意外とあの時期、山の上の方の温泉では営業しているところがあったのです。たぶん、この辺が福島の人のやさしさ。きっと、温泉は勝手にでてるわけだし、市内では誰もが水が出ないと困ってんだからと、いうことなんでしょう。
なんだか、それを聞いて、明るくなりました。この時期に温泉かよ、まったく、と口ではいったものの、そういう軽さは救いでした。深刻なだけでは持たないなと思ったものです。
そういえば、あの時期、お店の対応もはっきりと分かれていました。ガソリンスタンドでも、供給が極度に減った状態でも平時と同じ値段をつけてたところが大部分だった中で、値段をつり上げたところもありました。ま、商売の原点ではありますが。
タクシーでも、まったく対応が分かれ、最悪の時期でも、まったく普通に市内を走ってくれた松川観光というタクシー会社には今でも感謝しています。
ものがない、水もないなか、うちにはまだ材料があるのでとそれがつきるまでやるからと、いつもと同じ値段でパンを売ってくれてた小さなパン屋さんもありました。誰も最小限しか買わないので、いくつも買い込んでおきたいのをぐっとこらえて、だけど、たしか、何か言い訳しながら、3つか4つ買ってしまったのは、ちょっと恥ずかしかった。
もちろん、なによりも原発の中に最悪の時期でも捨てずに大勢の作業員が残っていてくれたことが最大の支え。政府には何も期待してなかったけど、普通の人の生きようという強い気持ちを知ったことが、あのときのぎりぎりの我々のメンタルを救ってくれたように思います。