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2018年12月24日月曜日

戦争が起きなかった年号

そう、平成は戦争が起きなかった年号でした。その前の年号までは、いつも戦争がありました(古い時代についてはもしかすると正確ではないかもしれないけど)。

元左翼としては、天皇のことを書くのは、なかなか難しく、さすがに、陛下と呼ぶのには抵抗があり、だからといって、天皇、だと、呼び捨てのよう。だけど、他に適当な呼称もないので、やはり、天皇、とかかざるをえません。

ともかく、平成の天皇としての最後の(?)記者会見を見て、胸を打つものがありました。こんなことを書くようになるとは思わなかったですが。

戦争のないのが当たり前のように感じられる今の日本。でも、それはほんの最近のこと。前の元号の時の戦争があまりにひどかったから、もうやらないと憲法を定めたわけで、それからまだ100年も経ってません。ほんとに、以前の元号では常に天皇は利用され、その名の下で戦争が行われ、多くの命が失われてきました。

ころころ入れ替わり責任をとらない政治家と違って、代わることの許されない天皇にしてみれば、自ら表す国の意志として、人の命が奪われていくのは、まったくたまったものじゃない、そんな胸のたけを感じます。だからこそ、この最後の会見ではあれだけ長く沖縄のことについて触れられたのでしょう。象徴としての最後の役目と思われたのかもしれません。だからこそ、11回も沖縄にいかれて、今年、天皇としての最後の年に行かれたわけですね。

これを書いてる今日はクリスマスイブ。エストニアの放送局Klassikaradioでは、ちなんだ曲がずっと流れています。礒山 雅氏による労作、「マタイ受難曲」によれば、イエス・キリストが教えを説いて各地を回ったのは、実際にはわずか2年余りだとか。そのときの社会にとっては、それだけの期間しか許されないような過激な思想だったのでしょう。

それから、2000年が経ち、我々は、北国の12月のでも穏やかに眠れるような科学という武器を手にしました。だけど、争いは絶えることはいっこうになく、無駄な命の奪い合いがこの世から消えた年なんて、一度もありません。

だからこそ、この平成という期間、つまり自分が表す日本においてだけは、国が表にたって人の命を奪うことはなかった、 このことを、もっとも誇らしいこととして、語られたのかもしれません。多くの哀しみの中で、これだけは、と。

2018年12月18日火曜日

Finnpipette Focus Short, no longer available

いくらお金があってももはや買うことのできない実験器具、フィンピペットのFocus Short。研究者の絵筆のような、微量溶液を加えるための器具としては、ピペットマンという代名詞になってるGilsonがもっとも一般的。だけど、私は小ぶりで軽量のフィンピペットのほうが好きです。これはその名の通り、フィンランド生まれ。このフィンは、なぜか、ギルソンと違って、モデルをころころ変えます。このFocus Shortは、確か、10年以上前のモデル。5年間くらい売られてたでしょうか。もっとあったかもしれませんが、気がついたら、使いにくいモデルしか買えなくなってました。

ラボの使ってない引き出しから出てきた左のP-3のタイプ、チップディスペンサーがついた形ののが出てきました。ダイヤル回し、チップdispencer、サイズ、重量、ともにベストで、すごく貴重。
 P-200やP-1000はまだ完全型のがラボに数本ありますが、P-3というか、FocusShortの良さには当時はあまり気がつかず、あまり買ってなかった上に、特にP3はディスペンサーの部分が壊れやすいのか、残るはこの1本だけ。

メーカーにはいつも、これを復活させてくれと御願いしてますが、作ってくれる由もなし。以降出てきたモデルはいずれもいろんな難点があり、仕方なく買いますが、何でこんなの作るのかなというのばかり。

ただ、ネットで探すと、このタイプも見積もり依頼、というのが出てきます。ひょっとして、世界のどこかに秘密工場があって、そこではひろかにFinnpippete Focus Shortを作り続けてる、などと妄想したいところ。でも、たぶん、このサイトは、こんなマニアを狙った個人情報の抜き取りサイトのよう。確かに、ついクリックしてしまいそうだ。この世はいつもこんなものです。

2018年12月14日金曜日

牛乳を飲む猫

この猫は牛乳が好き。だけど、飲むのが下手で、いつもこんなになってしまう。

本人はあんまり自覚がないらしく、何をこちらが喜んでるのかといぶかしげだ。

2018年11月25日日曜日

AuraOneで使えない文字

私の本、AuraOne(コミックversion)には9Gの空きが残ってます。大体、1000冊くらいで満杯になる模様。それぞれの本はだいたい1454x1872ピクセルで、文字は2ビットで入れてますが、もう少し、画素数を落とすことで、サイズを減らすことは可能。だけど、大変めんどくさい。auraOneをもう一冊買えばいいやと思ってましたが、最近では本は一冊だけにしたくなってきました。興味ない本、つまらなかった本はパソコン保存限定にするかな。

ところで、前から、auraoneに入れたはずなのにみつからないということがあったのですが、原因が判明。他の電子リーダーでもありましたが、禁則文字があるようで、他のOS上で入れることはできますが、パソコンへの接続を外して電子リーダーのOSで起動させると、ファイルが消えることがあります。

きっかけは、「螢・納屋を焼く」、村上春樹の短編集で、たまたま、なぜかこれだけ読んだことがなくて新たに買ってパソコンで入れて、寝る前にさあ読もうとauraoneをつけたところ、見当たらない。ごそごそ起き出してノートパソコンにつないで調べたところ、螢、という文字のファイルは、保存できないことがわかりました。。。

他に、町田康の名作「屈辱ポンチ」もファイル名として入れられず。これは「屈辱」のどちらかの漢字が禁則なのかと思ったら、なんと問題は「ポ」でした。「ポ」という名前のファイルは消されます。ひらがなの中でこの半濁音だけが、冒頭や、どこかにあるとファイルが消えます。だから、「ポール・エリュアール詩集」がみつからないんだと、ようやく納得。前から、何かないなあと思ってたのですが。

不思議なのは、「量子テレポーテーション」や「イル・ポスティーノ」は入ってること。前後の関係?普通、禁則文字であれば、どこにあってもだめなはずで、これは謎。

螢は、旧字体なので仕方ないにしても、ポはないだろう。ポールマッカートニーのファンは困りそう。

Windowsでも禁則文字はいくつかあり、OSを最初に設計したときの土台のルールなので、いくらversion upしても変わりません。特に困るのが>や<と、コロン、セミコロン。論文の題名にはコロンが良く使われるし、データ記録のときにこれをファイル名にしたいことがよくあり、仕方ないので全角にしていれてますが何とも面倒。マックの禁則文字は確か、バックスラッシュだけ。

Windowsはやたら使えないファイル名が多いというのが、以前のマックユーザーとしての感想。だけど、さすがに普通の文字が禁則になることはありません。auraoneはアンドロイドのはずだけど、大抵のスマホはアンドロイドなわけで、これが禁則文字というのはありえないし、不思議です。Androidのタイプなどがあるのかな。ともかく、備忘録でした。

PS そうか、以前、アポリネール詩集が入らなかったとぼやいてましたが、これは、ポ、が原因だったのか。ジャンポールサルトルなんかもだめか。Paulが件名につくことは多そうだから、これで大丈夫なのかとも思うけど、マニュアル通りに楽天経由で電子ブックを入れてる分には、パッチで表示されるようになってるのでしょう。


おまけ
休日、昔よく行ってたパン屋さんに久しぶりに行って、いいお天気だったので外で食べてたら、こんなのが出てきました。
 春生まれですね。うちのクロと同じだ。早く住まいを見つけないと。福島の冬は猫には厳しい。

パンを食べると、こぼれるからなあ。また来るしかないか。

2018年11月23日金曜日

ヤクザ者

「自分たちのようなヤクザ者がいなければ、原発の収束作業はどうにもならなかった」

今西憲之さんによるネット記事の一節。ここでいうヤクザ者とは、良く使う文学的表現ではなく、文字通りかつてヤクザだった者のこと。この話、よく聞きますが、福島の人間としては複雑な思いです。だけど、ほんとにそうだったと思うのも福島の人間。

壊れた原発を何とかここまでふみとどめさせてくれたのは、どうかすると一日で1ミリシーベルトも被爆したり、それはまだましな方で、真夏でなくても防護服の中はいつも蒸し風呂状態、それだけで命が奪われることもある、そんな現場での過酷な労働があったから、こそ。

とても難しい。入試と違ってどこにも正解などない、この世界。




だけど、猫の世界も難しいのかな。生きるからには、無数の選択があり、自由だからこそ、そうなのかもしれない。

2018年11月18日日曜日

鬼塚


福島は歴史のある街で、あちこちにいろんな石碑があります。小川の交わるところに、鬼塚という、変わった名前の小さな小塚があり、なんだか不思議な雰囲気があって、以前から気になってました。


いつも丁寧に手入れされていて、このお地蔵さんのような子どもの像には、いつもこんなかわいい掛け物がしてあります。寒くなるともっと暖かい着物に替えられます。

ひょっとしてお子さんが事故でなくなったのかと最初は思いましたが、こんな石碑や像が建つことはないだろうし。


休日に、なんだろうと車を止めて入ってみました。車で通るときには気がつきませんでしたが、掲示板があり、市の文化遺産のようなものに指定されているようで、鬼塚の説明がありました。だけど文字もぼろぼろに剥がれていて、一部読めないところもありました。だいたい、こんな話。

昔、ここにお寺がありました。そこに熱心に通ってくる子どもがいました。お坊さんはその子に、湘南の浜のお寺に高名なお坊さんがいるから、その人について学びなさい、と話しました。そこでその子は、湘南の浜までたどり着き、お寺を訪ねました。ところが、その高僧はなくなっておられたのか、どこかに移られたのかで、会うことができませんでした。

遠い昔のことです。湘南まで長い旅路だったはず。自分の願いが叶えられないことを知ったその子は、湘南の海に身を投げたそうです。それを知ったお寺では、その子を憐れんで稚児塚として供養している、だいたい、こんな意味だったと思います。記憶の中で物語が若干編集されてるかもしれませんが。ただ、稚児塚が、いつしか鬼塚、になったのか。

だけど、なんだか、不思議な物語。その子は、失意と共に、これでは故郷や自分のお寺に会わせる顔がないと思ったわけで、逆に、お寺の悔恨の念なのかな。小さな子に間違ったことを伝えて追い詰めてしまったという。だから、鬼塚、でもあるのでしょうか。誰しもが鬼になるかもしれない、という戒め、とか。

お寺はずっと昔に壊されたようですが、花はいつもきれいです。鬼塚は、おそらく地域の方が丁寧に守っておられます。

2018年9月30日日曜日

1973年

1973年のピンボール、たぶん20年ぶりくらいに読みかえしました。若い頃は、これが一番好きでした。ベストな作品でないとはそのときから思ってましたが、これや、その前の風の歌に、漂う叙情と感傷が、やはり若い頃にはぴったりくるものです。たとえば、こんなところ。

 「様々な香りが鼠の鼻先を穏やかに漂い、そして消えていった。様々な夢があり、様々な哀しみがあり、様々な約束があった。結局はみんな消えてしまった。
・・・」

  改めて読んでも、やはりこういう表現はいいし、後年、深みを増すなかで失われていった部分もあるようには思います。何より、今回つよく感じたのは、これの前半は、この当時はやっていた、カート・ヴォネガットの特に、「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」との強い影響というよりは模倣。これは大金持ちの家に生まれ、貧しい人々にお金をばらまこうとするローズウォーターと財産管理しようとする周りの格闘を描いた、ユーモラスで苦く、心に残る物語。よく似たトーンで、なんだか、ハイホー、といいそう。そういえば、彼もどこで良く使ってなかったっけ。

1970年代、嵐が通り過ぎて、ギターを燃やすかわりに、放り投げてどこかにいってしまった時代。だけど、ギターは放り投げて、パスタをゆでてはいても、若者の心の中の嵐はいつの時代でも過ぎ去ることはなく、不安と焦燥がパスタをゆでるお湯の中に映っているだけ。カート・ヴォネガットが確立したスタイルはまさにその空気を的確に反映したものでした。

でも、この作品では後半になるにつれて、次第にその模倣は姿を薄めて、以降の村上春樹の向かう世界が少し現れてきます。新鮮さは風の歌ほどでもなく、完成度や深さは以降の作品ほどあるわけもなく、彼の代表作とはなりえないですが、でも 私はやはりこれは好き。

後年、芥川賞がこれや、最初の「風の歌を聴け」に与えられなかったことで、賞自体が批判されたこともあるようですが、どうでもいいこととはいえ、むしろ芥川賞には違和感があります。風の歌が群像の新人賞を受けたという結果が、一番相応しい。

なにげない、こんな表現がとても好き。彼はこれを掘り進めていった。

「・・・・・・
職人には二人の息子がいたが、どちらも跡は継がずにこの土地を出ていった。そして残された家は誰ひとり近寄るものもないまま廃屋になり、長い年月をかけてゆっくりと朽ち果てていった。そしてそれ以来、この土地では旨い水の出る井戸は得がたいものとなった。
・・・・」

2018年9月29日土曜日

培養細胞は不安定

ラボではjournall clubを他のラボと一緒にやってます。違う分野なので思いも寄らぬ内容が出てきて、気兼ねなく話せるので楽しいのですが、今日、他のラボのスタッフから紹介された一連の論文は衝撃的でした。

細胞生物学においては細胞を培養するのが実験の第一歩で、それぞれ、目的に応じた培養細胞を使います。我々はより普遍的なことを知りたいので、生きてれば何でもよくて、ごく一般的な汎用細胞を使ってます。培養細胞は、基本、無限に増えるがん細胞ですが、ただ、飼っている間はいくら増えても同じ遺伝子を同じだけ持ってると、何の疑いもなく思ってました。

ただ、昔から、汎用細胞、特にHeLaや、他の良く使う細胞はラボによって随分違う表現型を持つということはよく知られているし、その亜型を使い分けてもいます。今回、Broad Instituteのグループ(ToddGolub)はそれを進めて、あちこちのラボからMCF7という良く使われる培養細胞を集めて、それらの全遺伝子を調べるということをやりました。こちら
https://www.nature.com/articles/s41586-018-0409-3#Fig10

結構違うだろうなという予想はあったものの、その、違いのレベルが、実はとんでもないものだったという報告です。ラボ間での違いだけでなく、細胞に遺伝子を入れたり削ったりする場合は単一細胞を取ってそれから増やす、クローン化という操作を行いますが、その過程でもどんどん変わっていってるということが示されました。わかりやすいのが下の写真、MCF7の染色体を並べてますが、驚き。そもそも2倍体の方が少なく、4つのや5つのもあるし、ひとつのもある。しかも培養してから一年も経っていないのに、染色体の数すら各染色体で変わっています。
たとえば第五染色体は最初が4倍体、それからクローンを拾った時点で3つになり、半年経ったときにそのクローンが4つに戻ってます。13染色体は、2つあったのが一つになり、半年したら、これはゼロってこと?。。。この細胞は遺伝子が特に不安定な要素ということもありえるそうですが、そうはいっても、もっとも良く使われる細胞の一つです。小保方さんの実験も、こんなことに遭遇したせいだったのかもしれないと、ちらっと思ってしまいました。写真の合成はありえないにしても。

これでは、ゲノム編集するときに何個のアリーレの遺伝子変化を正解とすればいいのでしょう。普通は、2つ削れてるのがあれば両アリーレが変わってて、いずれもframeがずれてればその遺伝子はつぶれてるとみなすのが普通ですが(発現量のチェックはするにしても)、こんな染色体組成だと、そんなのはまったく根拠なし。まずはその遺伝が乗る染色体の数を調べないと。しかも実験している最中にやらないと意味ないし。彼らはどのsingle cloneも染色体のパターンも違ってたと言ってます。また、配列自体も変化してるとか。

私らはクローン化すると、クローンの「個性」が出てしまうので、よほど必要がない限りやらないでが(過去の経験から)、そういう感覚がそんなに意味があるとは思いもしませんでした。そもそもクローン化したらずっとその遺伝子型というのが常識でした。ただ、細胞を起こしたら、2-3ヶ月の培養で終了にして元ストックから起こしましょうとは言われてきてます。でもほとんどそれにしたがってるところはないでしょう。

これでは培養細胞の研究は、その細胞が相当なアバウトさを持ってることを前提で進めないといけない。論文では遺伝子ごとの変異を徹底的に調べて、どんどん変わっていく遺伝子がある事を見つけており、それは形質転換されたMCF7に限らず、”正常”とされるMCF10Aでも似たり寄ったりだったとか。。。

だから、細胞の実験は、やる度に違う結果になったり、しばらくするうちに再現されなくなったりすることも珍しくなのかもしれない。特にこれは、shRNAで遺伝子発現を抑制した細胞をクローニングすると、その表現型は割と早くに消えてしまうことも説明しそうだ。感覚的には納得できるものの、これは大変だ・・

2018年9月22日土曜日

残された校舎 九大で

かつて九大では、六本松で教養課程を終了した学生は箱崎キャンパスに移って専門課程に入ることになっていました。電停を挟んで左に向かうと文系キャンパス、右手は理系の人間の行くところでした。生協もあったので、左手にも時々行きましたが、同じ大学でありながら、そこはまったく未知の世界。

その当時は学生運動はほぼ消えかけ、それでも立て看と講義中に侵入してアジテーションする活動家、彼らのアジトとしていたサークル棟は、まだ健在でした。箱崎のメインキャンパスは医師薬系を除いた理系と文系からなり、住宅街のど真ん中にあって、絵に描いたような学生街でした。どれだけ多くの物語がここで生まれたことでしょうか。

住民に迷惑をかけたことも数限りなくあったはず。でも、おおかた、街には温かく迎えられていた印象がありました。学生運動の激しかった頃、学生たちがよく通っていた鳥屋さんが、逃げ込んできた学生を匿って、警察を追い払ったという話もありました。この鳥屋さんはとにかく怖いおばさんがしきっていて、作法を守らないとどなられます。それで学生たちは緊張しつつも余りのうまさと安さに通ってましたが 警察もあの女将さんには恐れをなしたのでしょう。いまでは、聞いた話では、この鳥屋さんは、特別なつてがないと予約も取れないそうで、警察とか県関係者とかばかりになってるとのこと、ほんとかな。

箱崎という、博多とも少し違った文化を持った街の中の大学、これが九大の魅力でもありました。それが、福岡市の西の端にある山の中に移転してしまいました。

物事が整理され、説明つかないものが次第に消されつつある時代です。これは大学は郊外に移転することが先進的と考えられた時代に決められました。街の真ん中に大学があるので、都市の発展を邪魔してるという声も、経済界の方からでていたような記憶があります。大学側では誰が旗を振ったのかわかりません。いくら街から言われても断ることはできたはず。自分たちには関係ない先の話だからと、歴代の執行部は拒否する労と時間を惜しんだのかもしれません。巨大な資本の前には、気がついたときには、もう元には戻れなくなっていたというのもあるでしょう。

誰も行きたくはないので可能な限り先送りにされてきたという話は聞いてました。次の代までは遅らせて、と。加えて、とにかく何もなかった地域なので、交通網の整備も必要でした。予定よりどれだけ遅れたのかわかりませんが、今頃になって実現しました。移転した新キャンパスには行ったことないですが、マップで見ると確かに広い。合理的な建物が端正にならんでるのでしょう。だけど、元々、街がないところに作ったキャンパスなので、まだあまりいい話は聞こえてきません。筑波大学がつくば市を作ったように、新キャンパスが街を作るのは長い時間がかかることと思います。特に学生には気の毒。

北海道で大地震が発生したころに、ネットの記事に、取り壊すことになっている九大文系キャンパスで爆発があったと出ていました。法学部の建物でとしかなく、小さな記事でした。てっきり、学生運動系の残り香かと思ったら、続報が出て、研究室を使用していた40台の卒業生でした。大学院は中退で学位は取られてません。

法学のなかでも、専門は憲法学だったという話。その研究を続けたくて大学での非常勤などを続けていたそうです。アカデミアでのポストが厳しくなってきている中、というよりは、特に文系で学位がなくて40を超えていると大学での定職が厳しいことは今も昔も変わりません。法学なので、学位を取るには時間がかかります。非常勤講師などをしながらなんとか学位を取ってと、アカデミアにとどまろうとしていたのでしょう。

だけど時間ばかりが過ぎさり、次第に追い詰められていった彼の心持ちは、痛いくらいよくわかります。カオスが可能性として認められていた時代の終わりに、生きる余地をなくしていったのかもしれません。せめて自分で決めた最後の夜には、箱崎の街のいつも通っていた定食屋さんでゆっくりと食事されたことを願います。

2018年9月19日水曜日

キーリピートが遅くなった

キー操作が妙に遅くなってしまい、ESETのせいかと、そもそもOSのセキュリティがあるからいらないやと削除して、やや改善された部分があったような気もしましたが、でも、妙に突っかかる感じで遅い。明らかにキーリピートが遅くなってる。もちろん、control panelのキーボードのところでrepeatの速度は最速にしてるのに、どうもこれが反映されなくなったみたい。

そこでネットを探すと、ありました。
https://www.teradas.net/archives/12717/

設定で変えるなどというおだやかなことをせずに、regeditでレジストリを変更すれば良いらしい。確かに、レジストリの
HKEY_CURRENT_USER\Control Panel\Accessibility\Keyboard Response
を見ると、defaultのままの値になってます。これはまたもOS更新の際のバグだな。

サイトのおすすめでもまだレスポンスが遅いので、ちょっとだけ変えて、
AutoRepeatDelay:200(初期値 1000 )
AutoRepeatRate:16(初期値 500 )
DelayBeforeAcceptance:0(初期値 1000 )
Flags:59(初期値 122 )
にしてみました。かなりてきぱき。ただBackSpaceでの削除が早すぎて削りすぎてしまうこともあり、AutoRepeatDelayは250くらいがいいのかもしれせんが、はやいすぎるくらいのほうがいいかな。かなり快適になりました。ありがとうございます。

2018年9月16日日曜日

斧の思想

石原吉郎の「斧の思想」のなかにある「フェルナンデス」という詩、

「(前略)
・・・・・
しかられたこどもが
目を伏せて立つほどの
しずかなくぼみは
いまもそう呼ばれる
ある日やさしく壁にもたれ
男は口を 閉ざして去った
  <フェルナンデス>
しかれたこどもよ
空をめぐり
墓標をめぐり終えたとき
私をそう呼べ
私はそこに立ったのだ」

シベリアで抑留され、おおよそ人が望まないような人生を強いられたこの詩人。フェルナンデスとは、壁にもたれていた「男」のこと。それ以上は何も語られていない、影のように、この詩人は、彼のもたれていた壁のくぼみを見つめている。

2018年6月23日土曜日

番人


わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む

三浦雅士の「鏡の中の言葉」に引かれていた、寺山修司の初期歌篇のなかの一首。

知らなかった。彼らしい斬新な予感にあふれています。ひっそりとした光景ですが、いつも物語はそこからはじまる、そんなことを、この早熟な少年が意識してよんだのかどうか。まるで、村上春樹の「世の終わり・・」の終章近くに登場する、森と街の境に住んで、小さな発電所を守る番人のよう。

もしかするとこの初期歌篇はあまりよく読んでなかったのかもしれません。そういうのが残っていると、うれしくなります。


わが内にわれにひとりの街があり夏蝶ひとつ忘られ翅くる

最後のところは、とびくる、と読みます。三浦雅士が指摘するように、そこには、「われ」という宇宙を見つけた少年の心の高揚があります。方法を見つけた、まるで新しい実験方法をみつけた研究者のように。


それにしても三浦雅士はうらやましい。寺山修司と話して、彼を批評し、天井桟敷も体験してきたなんて。こういう天才は、無用な細部に至るまで照らされてつまびらかにされる今の時代となっては、もはや二度と現れないかもしれない。

2018年6月11日月曜日

幻と祈り

ディラン・トマスの書簡集の中で出版社宛に出された手紙にあった詩「幻と祈り」。書きうつしにくいが 


         あなた
       は誰なのか
       となりの部屋で
     生まれているのは?
    私の部屋にあまりに高く
   響くので、子宮の口が開いて
  闇がミソサザイの骨のように薄い
 壁の向こうで精霊と生まれたばかりの
子の上の覆いかかるのが私には聞こえる。
 時間の燃焼と回転と人の心の足跡には
  いまだ知られていないこの生誕の
   血にまみれた部屋のなかでは
    頬ずくのは洗礼などでは
     なくただ暗闇だけが
      この荒々しい子
       を祝福して
        いる。


彼は、編集者に対して、この詩が完璧な対称性を持って印刷されるようにと指示してます。ここではなかなかそうなりませんが。徳永暢三氏と太田直也氏によるじつに見事な翻訳。この高み!

2018年5月26日土曜日

幻の第二巻 国文社

書店でよく名前を見る出版社でも、行ってみると、窓の外にエアコンが少し傾いてホースがたれてて、廊下にはロッカーがおいてあるような、古いビルの一室だったりすることがあります。出版という仕事はとても難しいようで、今の時代、とくにまた読者層が限られる本に絞っているほど、困難になることは想像に難くないところ。

たまに、出版予定だった全集が完成しないままになったというのを目にしますが、ないものは余計知りたくなります。先に書いたディラン・トマス全集の第二巻もそのひとつ。出版されませんでした。1巻はもちろん詩集で、3巻は評論(+α)、4巻は戯曲(というより脚本)、とすると、この幻の2巻は小説でしょうか。書簡か、日記?そういえば、確か、ボストンの古本屋で何気なくなったペーパーバック、最初に手にして驚愕した、「仔犬のような芸術家の肖像」や「ミルクの森で」が全集にはありません。なぜにこの巻だけ刊行できなかったのでしょう?

この全集は国文社という出版社が出してます。この会社のウィキペディアに載ってる主な出版目録というのがまたすごい。

ポリロゴス叢書
アウロラ叢書
アルベール・ベガン著作集

等々、ちっとも知らない。。。

名前に馴染みがあるのは、ディラントマス以外ではリルケくらい。それも書簡集。これで経営が成り立つのかと、人ごとながら畏怖の念すら感じます。ウィキペディアの補注を見ると、この経営者の息子がタレントの高田文夫だとか。ものすごいギャップだけど、なんとなく、そうか、という気もします。

だけど、会社のサイトに行くと、さすがにもっと一杯出してて、なんと、牧野虚太郎詩集(!)や森川義信詩集、さらには再版された一連の荒地詩集をだしてくれたところでした。同じ出版社だったのか。。。これらの詩集を買った日のことは良く覚えてます。こういうのを出版できる日本文化のすごさを感じたものです。即買いして、多少は売り上げに貢献したかな。それにしてもウィキペディアのこの記事、省略しすぎ。あんまりなので直してあげる?

目録の中には「日本海軍艦艇公式図面集」や「ルネサンスの活字本」などがあります。相当、不思議な出版社。共通点はまず売れないだろうということ。外国文学が多いようですが、どれも相当マイナー。「テーベの埋葬」というのがありますが、これはソフォクレスのアンティゴネーの変奏で、人間の法と神の法の相克を意味し、ジョージ・ブッシュによるイラク侵攻と重なってる、とのこと。う~ん、これは一度行ってみなければ。

経営的な理由で、第2巻は出せなかったのかなとも思ってましたが、権利の問題かもしれません。ともかくそんなのより、誰が翻訳をしたのでしょう。あとで、どこかから出されたのかな。翻訳者にとってはもちろんですが、社会にとっても貴重な財産のはず。彼の作品の翻訳は想像を絶する作業のはず。ただそれだけに日本語に移し替える喜びは格別なはず。

国文社の編集者だった人が、その辺の話を書いてくれたら、速攻で買います。輝かしい言葉の裏には、見慣れた日常の営みがあるわけで、下世話な話であっても、どういう人たちがこの作品を支えてきたのか、知りたい。

2018年5月19日土曜日

これは冬の物語である

ギアを掛け違えて、眠れない夜ふけ。うっかり、村上春樹のアンダーグランドを開いてしまい、目が余計にさえそうになって、あわててこちらに。開くべきは、やはりディラン・トマス。修復。
   
「    これは冬の物語であるーーー  」

有名なこの出だし。時季外れだが、異様に寒くなった今日には悪くない。


「 雪で何も見えぬ黄昏が 盃のような谷間の農場から

湖と浮かぶ野原の上を渡ってゆく、

手につつまれた雪片を抜けて風も立てずに滑りながら、

ひそやかに流れる牛の白い息、」


松田幸雄氏のみごとな翻訳によるディラン・トマス全詩集-しかもこれには丁寧な「訳注」、すべての詩についての説明がついていて-本をばらす踏ん切りがなかなかつかず、aura oneにいれたのはつい最近。読みたいときに読むことができることが何よりも貴重。


なんという豊穣。ウェールズに立ち、この世の輝きを謳い続けた、ウェールズの詩人は、どんなときにでも、不思議なくらいにそのことに立ち返らせてくれます。


後期の「脚長の餌の唄」から、終章


「さよなら、幸せに、と太陽と月が

陸で途方に暮れる漁師に 光を投げた。

男は自分の脚長の心臓を手ににぎり

家の戸口に独り立っている。」




違うか・・・ メスだし。

2018年5月3日木曜日

長編読み

すっかり長編読みに戻りました。長らく忘れてましたが、若い頃に、本屋で買うときは分厚さも本の選別の大事なファクターでした。3センチ以上あるとそれだけで惹かれたものです。吉里吉里人のように、上下2段組で4センチある本に出会ったときの幸せな気持ちは忘れられません。

だけど、いつ頃からか、短いものしか読まなくなってました。なぜだろう。哲学的な理由なんてあるはずもなく、寝る前しか読めないから、単純に、寝て読むから重たい本を持つのがしんどくなったから、のような気がします。それと老眼になったので、照明がちゃんとされてないと読みにくくなったのもあるかな。ただ、それまであまりまともに読んでなかった詩を、まじめに読むようになったのは、ありがたい副産物でしたが。でも詩人がそんなこと聞いたら悲しむだろうな。


夜中に、灯りを消して、aura oneをつけると、それしか目に入らず、完全に本の世界。軽いし、文字も物理本と同じくらいの大きさで、また電子本と違って文字がChainLPで加工すれば鮮明になり、照明も文字しか見えない、完璧な状態。本を読む人といえば、天井までの本棚に囲まれて、重たい本をかかえてソファや机に持ってきてランプをあてて、という映画のようなイメージがありますが、この230gがすべての物理的仕様にとってかわりました。本の持つ雰囲気はないですが、本の中身なら、これこそが、ものすごく大げさにいえば、これまで読書人が待ち焦がれていたもの。


ともかく。ポール・オースターを読んで、次、どうしようかと思ったのは、ノルウェイの森。村上春樹の長編といえば、これを外すわけにはいきません。だけど読むべきか。若い頃、熱心に読んだこの本には、いろんな思い入れもあります。でも、やはり読まない選択はなし。何十年ぶりに開きました。最初の数ページ、こんなのを彼は書いてたのかと思うほど寒くて、なるほどこの頃、アンアンにエッセイ書いたりしてたのも納得でしたが、でもそれははじめの章だけ。

何十年ぶりに出会う、ワタナベくんは、若い頃、出会ったときとはまったく違う顔をしていました。その頃も思いましたが、これはトーマス・マンの「魔の山」をイメージして書かれたように思います。おそらく、このドイツ伝統の教養小説の型を借りて、純真な青年ハンス・カストルプくんが、山の中のサナトリウムで、二つの相反する理念、肉体と芸術、善と悪、神と悪魔、激しく対立するイデアの中に身を置いて、成長していく、そんな型を借りようとしたのかもしれません。実際に、ワタナベくんはこの本を持って山の中の療養所に行き、読みふけっています。

ただ、それは型を借りただけ。魔の山で、何より圧倒的なのが「雪」の章。ハンス・カストルプくんは、激しい雪の吹き付ける森の中を彷徨い、そこで、いろんなものが相反するこの世界の成り立ちを、深く納得します。そして山を下り、第一次世界大戦の中に身を置き、シューベルトを口ずさみながら、野原を行軍します。賛否の割れる終章ですが、これはトーマスマンの出したひとつの答えでした。

だけどこのワタナベくんの物語では、答えは与えられません。廃店間際の本屋さんでの、何とも楽しく愉快な緑との会話から、直子とレイコさんと過ごす療養所での最初で最後の一夜、限りなく美しく、幸福な喜びに満ち、永遠に続くだろうと思ったその夜のこと。ただ、その中には何かひんやりするものが混じっていて。山を下りたワタナベくんの元に届いたのは、直子の死の知らせ。

北にさまよい歩き海辺の小屋に寝泊まりして、心優しい漁師の勘違いに、ふと我に返ってかろうじて戻ってきた街では、生きる接点となった緑さんとのつながりもほぼ切れそうになり、激しい混乱のままに、この物語は終わります。何の解決もなく。
 

ご本人があとがきで断っているとおり、これはかなり個人的な小説だそうです。だから、他の彼のどの物語とも違っていて、魔の山の形を借りて語りはじめたのかもしれない。だけど、ワタナベくんの立ち尽くす姿は、ハンス・カストルプのように新たな世界にたち向かうことができない、誰もが直面する、この世のもうひとつの難しさ。だからこそ、彼の文学が世界中で読まれてきたのでしょう。

かつて読んだときは、どんどん出てくる露骨な性描写のほうに目を奪われて、なんともうらやましいことよという思いが先に立ち、とてもまともに読めてなかったこともあるだろうし、昔の彼女が同じ名前だったという、なんともよくある話も、感情抜きには読むことを難しくしてたのかもしれません。


ともかく、今、羊をめぐる冒険を読み終えたあとで、ワタナベくんの悲しい記憶が、ようやく普遍性を持って響いてきました。どことなく、これは、前に書いた、「ユキの日記」、心の壊れていく様を記した少女の心の記録と重なるところがあります。

解決には死を選ぶしかなかった直子とキズキは、いつの時代でも、若者の一つの姿。一体、どうやって我々はそこから抜け出してきたのだろう。

2018年4月8日日曜日

あなたが涙を流せないもののために

「あなたが涙を流せないもののために私たちが涙を流し、あなたが声を上げることのできないもののために私たちが声を上げて泣くのよ」

気がついたら、ダンス・ダンス・ダンスが終わってました。もうこのところ、村上春樹の長編をずっと読んでました。さあ次は何を読もうかとライブラリを物色してたとき、ねじまき鳥クロニクルを実にほぼ20年遅れで読み終え、気がついたのは、騎士団長もIQも読んだけど、どうもちゃんと読めてなかったこと。ならば、とこの3部作に取りかかりました。といっても寝る前の30分限定のつもり。

この本、買ったのは札幌にいた頃、たぶん、 出版後すぐに買って、そのまま書棚。5-6ページしか読んでなかったと思います。書棚でそのまま眠って、去年ばらして、aura oneの中。そこで眠ってました。

村上春樹は短編は随分読んでて、風の歌が一番好きでしたが、まったくわかってなかったことを認識。彼は、自分でもいってるとおり、長編こそが、彼の仕事。これまで長く生きてきたけど、これを知らない世界で生きてきたのかと、後悔すら覚えました。滅多に後悔なんてしないのですが。

この3部作、読んでいるときは、特別な時間でした。読み終えたときは、それが終わってしまったという喪失感で一杯。

となると次は、やはり、羊をめぐる冒険、でした。この本、手にするのは実に30年ぶりくらい。最初に読んで、ちっとも面白いと思わず、本棚に戻しました。そもそもこのために、彼の長編にはあまり熱心にならなくなってしまったのですが。

友達はこの本をとても特別なものとしてました。私にはそれがわからなかった。その頃は寺山修司に出会い、山海塾に心をゆり動かされ、フェリーニにはまっていた頃、映画は沢山見ていたけど、何をよんでたのだろう。当時は、私にはこの本の読み方がわからなかった。

長編は、こういうことがよくあります。町田庸の「告白」もそうでした。最初は2ページも読んだかどうか。そもそも、小説を本格的に読み出したきっかけとなったトーマス・マンの「魔の山」も、高校生の頃、夏に向かうある日の午後、日の当たる部屋で後ろの方を適当にひろげたところから、はじまりました。

羊をめぐる冒険に戻って、彼の長編の世界の成り立ちがようやく見えてきました。なんという深み。 そしてダンスダンスダンス。順番がでたらめですが、これは、羊をめぐる冒険の続編なので、偶然でしたが、とってもよくわかった。途中、これはよどんできてるかもと思うところもあったけど、彼の、息を詰めて深く井戸を掘る作業、その誠実さは、冒頭にあげた終章近くのキキの台詞を生みます。

もっと前に読んでおくべきでした。だけど、知らないよりずっと良かった。




気がついたら、桜の季節。ラボに向かう道の途中、寄り道して通った桜の街道。

2018年3月20日火曜日

Kobo Aura ONE コミックEdition

koboのeInkリーダー、aura oneにはストレージが8Gしかなくて、これが、ネットで随分たたかれてましたが、昨年末に32G のが出ました。2つは要らないしハード自体は変更もないとのことで、素通りしてました。だけど女房がkoboのaura H2Oに単行本も入れだしたのを見て、6インチ画面で単行本を読むのは辛かろうと、同じ老眼同士で気の毒になり、購入。この機種、ほとんど話題にもならず、たけど、どうも地味に売れて入る模様のか品薄感もあり、また期間限定販売との噂もあったことだし。策略?

今回は、ネット販売に力を入れてきてるビッグカメラさんに注文して。翌日に到着という早さ。開封の儀も何も、前と全く同じなので、たいした感動もありませんでした。強いていえば、2016年に買っときは本体からwifiにつないで楽天にログインするのが面倒だったので、今回はパソコン経由でインストールしたのが違うだけ。パソコンでは新たな設定がいらないので楽でした。たいしたことでないけど。

この1年半ほど使ってきたaura oneは、買って当初、ソフトインストールのためにネットにつないで、すぐに余計なのが入ってこないように切って、あとは、去年の4月に一度、wifiにはつないでversionアップしただけ。なので、さすがに今回、versionが上がってました。でもなるほど機能的には全く同じ。この32Gのタイプはコミックバーションと呼ばれていて、サイトの宣伝によるとマンガの本を読むようにパラパラと飛ばし読みができると謳ってますが、実際には対応できてない模様。これは消費者庁的には問題な気もしますが、当方には関係なし。

ただ、ホームの画面で表示する項目の自由度が減っていて、やたら楽天のストアに誘導するようになっていて、以前はできた、飛ばないという選択ができなくなってる模様。

そこで、以前のH2Oでいじったのを思い出して、前のブログを見返して、koboの中のフォルダの.koboの中にあるKobo eReader.confを変更することにしました。楽天の余計な設定はここでたいていは変更できます。ひさしぶりにテキストエディター、terapadを使ってファイルを開いて、このファイルの中を見ると、以前のaura oneとは異なる項目が多くあります。さすがにネットでもほとんど情報がないので、それらしい設定項目をにらみながら変えてみました。

その結果、うんざりするホーム表示のほとんどはここの項目の設定を、=trueや、=なんとかになっている部分をfalseや、なんとかを削除することで、消せました。たぶん。tureになってるアプリの大抵の機能はストアで買うためのものなので、これらをオフにすればいいみたい。他には、LastLibraryTab=Booksくらいかな。

結局、trueや、=のあとに元のを残したのは以下のだけ。
LastLibrarySorter_articles_filterByArticles%28%29=sortByDateAdded()
LastLibrarySorter_books_filterByAllItems%28%29=sortByNewest()
LastLibraryViewType_books=viewBy5List()
LastShelfListSorter_shelfList_=sortByShelfName()
LastSyncTime
LongPressDialogShown
ReadingSettingsChanged
SignInTime
SwipeDialogShown
firstRunDate
lastPlugTime

これらは自炊本を読むのにも便利かと思い残しましたが、あんまり自信ありません。実は、間違って、元々のファイルも消してしまったので、どれが有効だったのかがよくわからないこともあるし。。。

ともかく、書名の最近読んだリストがずらっと並び、下部にストアの検索、という項目が消せずに残りましたが、これくらいはちいさいのでうざくなし。今後、ネットにつなぐことはないので、これで大丈夫なはずです。

32Gのこのハードに、実質は空きは28G位でしたが、aura H2Oに入ってる自炊本を全部移行。フォーマットは.cbzで、画素数も縦横比も大体同じなのでH2O用に設定したcbzファイルをそのまま移せます。本体の画素数としては、aura oneは1872x1404で、H2Oは1440x1080だけど、本を読むにはaura oneをH2Oくらいの解像度にしても同じ。またChainLPで2bitに階調を落としても読書には何の影響もないことは以前のブログで比較したとおり。これで2000冊近くは行くかな。コレクションのところで本の分類をまじめにやれば完璧です。

これでもうH2Oも見ることはないかな。このdisplayはなぜかaura oneよりもコントラストが強く、てきぱき動く良いハードで、ちょっともったいない気はします。なにかに使えればいいのだけど。

肝心の女房の本はすべて、8Gのaura oneにH2Oから移して、目的は達成。どうも7.8インチより大きなリーダーは出てきそうにないので(9.6インチ、10.3インチのノートは出てますが)、この辺で手を打った方がいいかな、というところで。

追記
どこかのサイトでauraの禁則文字というのが出てました。たしかキンドルでも、PocketBookでもあったので、アンドロイドの日本語の問題なのかな。今回、はじめてauraで遭遇。アポリネール詩集、というcbzファイルが入らない事態。だけど、これのどこが禁則なんだろう。他に考えられなかったので、ファイル名をフランス語にしたらあっさり入りました。やはりタイトルの問題らしい。この場合、auraoneに表示されないだけでなく、PCにつないでこの中を見ても、一度は入っても、取り外してまたつなぎ直すと、消えてます。どうもこの名前を持つファイルがダメなようです。免疫機構のような、不思議。

追記2
現時点での大きなebook readerに関する情報は、こちら。
 https://the-digital-reader.com/2018/03/27/large-ereader-roundup-march-2018/
8.6インチくらいがちょうどいいのだけど、そこは飛ばして9.6インチになるようです。ちょっとまえはBooxi86MLという8.6インチのがONYXから出てましたが、たしか解像度はキンドルと同じくらいで、いつの間にか消えました。

とはいえ、たいていの単行本の文字の印刷範囲は、実は7.8インチに収まります。なのでChainLPで画面ぴったりまでトリムすると文字サイズは物理本とかわりません。老眼の心強い味方。大判の教科書などでは小さくなりますが、すべてに対応する必要はないわけです。だから、7.8インチで実は十分なのかもしれない。

ずっと後の追記 20/07
この端末も一杯になりました。Oneは終了という話も出てますが、まだ出てはいます。ただ8Mの元のだけ。次の電子リーダーとして探したところ、同じKOBOのFormaになりました。これはほぼ、Aura One コミックeditionと同じ、5mmくらい大きいか。この話は次のブログに。
https://ketupa-peeri.blogspot.com/2020/07/kobo-forma.html

2018年3月11日日曜日

outlookからブラウザに飛ばない

以前も起きたトラブル、outlook2016からURLをクリックすると、『組織のポリシーにより、この操作を完了出来ません。ヘルプデスク担当者に問い合わせて下さい。』というエラーがでて飛ばなくなりました。コピーしてブラウザに貼ってますが、めんどくさい。以前は、前の記事に書いたように、コマンドプロンプトからネットワーク系のコマンドをリセットして解決しましたが、今回はそれもダメ。

検索すると、そういうトラブルは以前からよくあるようだけど、見つかる解決策は、マイクロソフトのツールを使う(ただしWindows10は適応外)か、Rootにある.htmlのところのdataを"htmlfile"に書き換えるということだけ。皆さん、これで解決しているようです。

でもレジストリを見るとそうなってます。ブラウザはwaterfoxなので、それが関係するのかとレジストリエディターでデータをいろいろと見て回りましたが、どうにも解決せず。ふと、思い当たったのは、最近、アンインストールしたGlary Utilities。この中に、レジストリクリーナーというのがありました。

このソフトをアンインストールしたのは、前にも書いたマイクロソフトのSEのブログの勧めに素直に従ったからです(このソフトとはいってませんが、ウイルスソフトやなんとかutilityなど諸々のOSに関わるものは要らない、という主張)。だけどこのソフトにはいろいろと救ってもらったことを思い出し、ともかくレジストリのどこかが書き換わったためにこうなってる訳のは確かなので、再度、このソフトをインストールしてレジストリクリーナーを走らせたところ、あっさり解決。Outlook2016からメール本文のURLをクリックするとwaterfoxに飛びました。

このSEさんのお勧めは、アンチウイルスに関しては正しいのかもしれないけど(実際に、OSのセキュリティ、firewallだけで何の問題も起きてません)、レジストリの書き換え関連は別のようです。調べたときにわかったのは、少なくともこの現象はどうやらソフトのアンインストールの際に起きてしまうことのようで、言われてみれば、今回のもFirefoxを抜いたときからのような気がします。要らないやとuninstallしたのですが。とにかくこのフリーソフトはやはり秀逸でした。有料版にしろとうるさいのがたまの傷(それもあって抜いたわけですが)で、レジストリの原因が何だったのかがすぐにはわからないのが難点といえるかもしれませんが。

備忘録でした。

付記
再び発生。今度はGlary Utilitiesはダメでした。困って探すと、今度は、以前書いた、管理者権限でのコマンドプロンプト からのネットワークリセット操作で解消しました。なんだかよくわかりませんが。他に、一つのモニターの背景がグレーになってしまってたので(再起動で解消)、なにかOSの更新関係のような気がします。